公言

 狂った思想のひとつやふたつはどこのだれでも持っているものだが、それを公にするとなると話は少々ややこしくなる。世の中の標準と違いすぎて簡単には受け入れられないであろう思想をただ語って、それを世間にそのまま理解してもらおう、というのはさすがに、虫が良すぎる話である。

 

 とはいえ、思想が狂っているかどうかを判断するのはじつは難しい。普通に考えればわかるとか、世の中の「常識」と照らし合わせてみろだとかひとは言うけれど、そんな簡単なことで済むのなら苦労はしない。というのも、みなが口にする常識というのはいつも少々肩肘を張りすぎていて、やや真面目過ぎる方向にずれている傾向があるからだ。

 

 たとえば。現在、未成年が酒を飲むのは絶対悪ということになっている。二十年前はそうではなかったらしいがとにかく現代では許されない、というのが常識である。そしてこの社会の構成員(とくに、若い世代)は全員その常識を共有しているものだということになっており、つまり大学に入学したとたんに酒を飲み始めるのは狂人の行動だとされている。

 

 とはいえあなたの身の回りに、十八で酒を飲んでいた人間がだれひとりいないか、と問うてみれば、たぶんそんなことはないだろう。コミュニティ単位ではだれも飲まないことはあるだろうが、複数のコミュニティに属していれば、そのどこかにはこっそり(といいつつ、割と堂々と)飲酒している人間くらいいるはずだ。そしてそいつは定義上、常識はずれなやつである。常識がそうなのだからそうなのだ。だが狂っているかと言われれば、さすがにそこまでではない。

 

 というわけで。常識外れではあるが狂っているとまでは言い難い主張は、意外とそこらじゅうに転がっている。それは公言されるべきものではなく(だって常識外れだから)、だがそれは単に、自分の口からは言い出したくないが他人がそう言っているぶんには構わない、というくらいの温度感のものである。というかもっと積極的に、むしろだれかに代弁してほしい、くらいのことは思っている、という場合のほうが多いかもしれない。それを聞くことが、自分が狂っていないという事実の証明になるならば。

 

 とはいえだれかがその言いにくいことを代弁してくれる、という理想的なシチュエーションは、なかなかやってこない。それはそう、みな常識を知っているからだ。自分の口からは言い出したくないのはみんな一緒、ならだれが言うかのチキンレース

 

 で、それでもあえて常識を破り、そういうことをわざわざ公言してくれる命知らずがいた場合、そいつは陰ながらなかなかの支持を集めることになる。