悪分類 ③

 強大で、明確な意志と行動力、忍耐力と合理性を兼ね備えており、たくましい想像力と実行力をもとに新たな世界を築き上げる寸前にまで達している、最終的な敵にふさわしい悪役は、悪であると同時に、絶大な人気を誇る。

 

 かれらは悪だ。だがだれもかれらのことを悪くは言わない。正確に言えば、悪だと断罪こそすれ、それはけっして根拠のない誹謗中傷などではないし、尾ひれのついて戯画化された噂でもない、ということだ。かれらはつねに正当に評価され、正当に評価されているがゆえに悪である。だれもがかれらのことを憎むが、同時にその力を認めてもいる。

 

 かりにわたしたちが作中世界の人間であり、かつまっとうに生きることをそこでも(あるいは、そこでは)選んでいたのなら、きっとかれらを憎んだだろう。そして作中と現実の区別をあまりしないひとたちは、この作品の外側にいてなお、かれらに真剣な怒りをぶつけられるかもしれない。

 

 だが現実と作中は異なる世界である。ゆえに一定数の人間にとって、そういう悪が魅力的なのは言うまでもない。

 

 昔からよく、わたしは悪役を応援していた。ハリウッド映画を観たときにとくに顕著な傾向な気がするが、現状維持というあいまいな正義を守らんとする主人公サイドより、明確な革命を企てる悪役のほうに共感することが多かった。現実に革命を起こされればたまったものではないが、創作の世界ならいくら壊しても平気だ。だから、思う存分壊してほしかった。

 

 そういう悪役の内面はしばしば、正義の主人公よりも詳細に描かれる。だれかが正義であることに理由は必要ないが、意志のある悪になることにはそれだけの理由が必要だからだ。ならばわたしが悪のほうを選んだのは、だれかが正義であることを理解するにもまた理由が必要だと思っていたからだったか。かれらは行動理由のより分かりやすい存在であり、つまるところより共感しやすい存在だった。

 

 そう感じているのはわたしだけではないだろう。

 

 悪役の一部は、共感できるように描かれている。ひとを共感させるだけの描写がある。したがってわたしたちがかれらを応援し、かれらの勝利と闇の時代の到来を願ったとして、わたしたちはけっして招かれざる客ではないはずだ。そして作者もまた同類である。共感できる悪の思想を描くことができるということは、作者もまたそれに共感しうるということだから。

 

 にもかかわらずかれらは依然として悪であり、悪の勝利をある意味では夢見ているはずの作者は、実際に悪に勝たせることもできるのにもかかわらず、そうはしない。