推敲

推敲とは難儀なことばである。字面を見てもなんだかよく分からないそのことばは中国の故事成語に由来していて、じゃあその内容はと聞くとテレビの難問クイズみたいで、要するに、知らなくてもなにも困らない雑学である。とはいえわたしたちはみな例外なく、授業を聞かずに脇に置いてある国語辞典をぱらぱらとめくっては目についたものを読んでいる子供だったから、コラム欄というまっさきに目に入る場所に書かれたことは何度も繰り返し読んでおり、だからそういうくだらない故事成語の由来をはっきりと知っているのである。

 

推敲。小学生のわたしのイメージでは、当時の中国とはだれかれ構わずみな漢詩を詠んでいる大陸だった。だから身分のよく分からない人間でもとりあえず漢詩のひとつやふたつはつねに頭に思い描いており、やつがどこの馬の骨だかは知らないが、とにかく漢詩の文字について思い悩んでいた。そこはたしかデカい道であり、そいつの前を日本で言う大名行列的なやつが通りかかったのだが、悩んでいたせいで景色が目に入っていなかったそいつはちょうど現代でわたしが横断歩道に突っ込むのと同じ感じでその大名行列的なやつに突っ込んでいってしまった。中国というのは日本と同じくらい恐ろしいところで、だからそいつは腹を切る間もなく斬り殺されるはずだったのだが、なぜだかその大名的なひとに理由を正直に説明して、なんだか知らんが許された。

 

よく分からない話である。一番わからないのは、この話がもとになった故事成語ならきっとこの話があらわすように、正直に説明するとたまには助かることがありますよとか、悩んでいて周りが見えなくなっているひとは許してあげましょうねとかそういう意味ではなく、単に詩の表現をどうするか悩んでいるという、ただそれだけのことだということだ。

 

まあいい。いまでも納得はしていないが、ことばには納得できないことがたくさんある。雰囲気のことをふいんきって呼ぶやつがなにを考えてるのかとか。

 

書いているうちにまた許せなくなってきた。推敲、なにが推敲だ、と思う。たった一文字の、それも二択を悩めばいいだけなら簡単じゃないか。サイコロでも振って決めろよ、当時サイコロがあったのかは知らないけど。現実の推敲ってもんはそんなもんじゃなく、選択肢はないし、漢詩みたいに形式が細かく決まっていることもないし、読んでみるとなんだかしっくりこない文章のどこが悪いか考えているうちになんだか悪くないような気がしてきてふて寝する、そういう不毛な作業だろうが。