悪分類 ①

 世の中には二種類の悪がある。分かりやすい悪と、分かりにくい悪だ。

 

 分かりにくい悪は分かりにくい。分かりにくいので、悪として描くのが難しい。

 

 たとえばツイッターでよく挙げられるものだと、引退した金持ちの老人が余生の充実のために採算度外視で経営している安くて美味しい定食屋、というのがある。一見するとすごくいい店だとしか思えないが、ツイッターによると、どうやらそれは悪らしい。

 

 理屈はこういうことである。その手の店は採算度外視なので当然のごとく価格競争に勝利し、採算度外視でいい素材を使えるので当たり前に美味しく、よって付近の客を軒並み集めてしまう。結果として、まわりの飲食店が商売あがったり、ということになり、長期的に見れば付近の食事情が衰退する、ということらしいのである。

 

 なるほどたしかに。理屈を並べてもらえば分かった気にはなる。風が吹けば桶屋が儲かるというのと比べれば、それなりに現実味のある理屈付けだというのも分かる。ただ、まあ、それだけである。理屈とはあくまで、判断という合成力をある方向に補正する力のたったひとつにすぎない。

 

 熱々の美味しい昼食を、慢性的な財布の寒さを気に掛けることなくお腹いっぱい食べている体育会系の大学生の、おばちゃん、おかわり、の声。それを見守る老夫婦の笑顔と、てきぱきと白米を運ぶ地元のアルバイト。論理はそういう光景に勝てない。いかに筋が通っていようが、それが十分に分かりやすく、説明されるまでもなく自明であるか、あるいは一般的に無条件の巨悪とされるなにかと密接に絡みついていない限りは。

 

 というわけで、実際にそこに笑顔と満足がある以上、それを悪として描くのにはなかなか、いろいろな工夫がいるわけである。

 

 とまあ、本題はそこではない。ちょっと深入りしすぎた気がするが、まあ深入りするのは悪とかではないからいいことにしよう。語れることはまだいくらでもあるだろうし、分かりにくい悪がかならず善の皮をかぶっているかといわれれば必ずしもそうではないのだろうが、今回はこれくらいにしておく。

 

 ということで本題は、分かりやすい悪について、だ。

 

 分かりやすい悪にも二種類ある。明確な意志を持った悪と、そうでない悪である。

 

 前者には別の名前がある。つまり、もうひとつの正義アナザー・ジャスティ。それらの悪とはつまり、考え抜かれた悪である。一般的な善悪の観念から自由になったときに、人間が見せる発想力のことである。それらの悪が悪であるのは、あくまでなにか別のことのための手段であって、目的ではないのである。