加法定理

 物理学とどうにも波長が合わない理由は、わたしなりに結構いろいろ考えてきた。昨日挙げたのは物理が公理的でないということと物理的対象の定義に頓着しないということの二点だったが、それだけの説明ではまだいまいち、しっくりこない。

 

 物理帝国主義者と呼ばれるひとたちがいる。そのことばは物理の人間に嫌な思いをさせられたあらゆる人間の怨嗟の結晶なのだが、まあ恨みのことはいったん水に流そう。とにかく物理学者の一部は物理法則こそが世界を記述する唯一絶対の法則であると信じ込んでおり、物理学を唯一至高の学問だと考えて疑わず、そしてほかの自然科学がすべて物理学の歪なまねごとか、あるいは物理のために作られた体系だと素朴に思っている。

 

 そういう世界観に、ほかの分野の人間が合わないのは当たり前だろう。これはわたしの妄想だがかれらにとって化学や生物学に固有の学問としての価値はなく、それらは現代の物理が直接扱うには少々複雑な対象を扱わねばならぬという世俗的な理由から仕方なく立ち現れた時代の産物であり、正当かつ健全な物理学世界の発展によって、ゆくゆくは吸収されていくものである。数学は物理世界を記述するために存在する言語であって、定義や定理がいったん物理学的意味から独立してしまえば、そこにはもうなんの探究価値もないパズルだけが残る。哲学は単に、強固な唯物論的信念によって無視される。

 

 数学の立場からこの視点を見れば、わたしが物理に合わなかった理由のひとつがまた見えてくる。物理学が数学を用いることは多いが、かれらが数学に求めているのは、物理学的意味を記述し、変形して扱う言語体系の提供に過ぎない。ひらたく言えばかれらは数学に定義と結果だけを求めているわけであり、すなわちありていに言えば、公式が欲しいのだ。

 

 公式とは懐かしい響きである。高校生のころ、三角関数の変形公式を覚えるか導出するのかというくだらない議論に費やした時間の記憶がぼんやりとよみがえってくる。あの議論のいちばんくだらないところは、結局大元にある三角関数の加法定理は覚えるしかないと最初から決まっているところだった。数学的事実である以上それが数学的に導出できるものだという理解は、あのときだれの頭にもなかった。

 

 そして物理学は多かれ少なかれ、そういうことをやっているように見える。スケールもレベルも大きく違うが、かれらの中にはおそらく、加法定理が導出できるものであるという発想がほとんどないのだろう。かれらは非常に多くの数学を、しばしば細部を間違って覚えながら、単に所与のものとして考えている。加法定理がなぜ成り立つのか分かっていなくても高校数学ができるのと同じように、それで物理はできるのだ。