成功の矮小さ

光が、見える。彼方より差し込む、白色の曙光が。

 

長い道のり。背後に続く道に光はなく、埃と汚物の悪臭が澱んでいる。どこへゆくのかも定かではなく、いつ夜が明けるのかも定かではなく、それでも歩み続ける以外に道はない。すべてを諦めて闇に消えたくても、身を投じるべき奈落もない。

 

光に向かって、足は進む。まるで両足じたいが、自律的に動いているかのように。歩みが早まる。光は大きく、強くなる。あいまいだった胴体が形を持つ。ついで、両手が、そして頭が。脳は見えているものを理解する。両足の苦役を理解する。

 

もはや統制の取れた全身。確固たる意志とともに、両腕が光へと伸ばされる。指先までもが、もはやはっきりとした形を持つ。興奮へと向かう、五つに枝分かれした機構。感嘆すべき精密さで先端すべてを動かして、身体は光を包み込む……

 

練習が実を結んだ瞬間。叫び出してしまうような興奮。間違いなくかけがえのないその瞬間にたどりつく方法は、努力以外には存在しえない。

 

だからこそ、練習には価値がある。練習以外では得られない、至高の感動。その一瞬のために、ひとはすべての力を費やす。

 

練習とは苦役だ。道中には、なんの喜びも興奮もない。仮にあったとして、それは本当の興奮ではない。これまでの苦役のすべてが、結果という一点に収斂した瞬間。その一瞬にだけ、真なる興奮は実在する。

 

そして。真なる興奮には、いかなる苦役をも凌駕する圧倒的な力が……

 

……正直、ある、とは言えない。

 

長年の苦労と、一瞬の興奮。真なる興奮への熱狂、だがそれは掴んだ瞬間から減退し、日常の中へと溶け去ってゆく。取り戻そうにも、すでに過ぎ去った瞬間。成功の余韻は消え去ってゆく。わずかばかりの、苦労の記憶を道連れにして。

 

労力に釣り合わない、一瞬ぽっきりの喜び。到底埋め合わせられない犠牲。光を掴むまで終われないという、採算を度外視した不毛な意地。労力と結果のコンコルド効果。

 

結果を出すことの矮小さを知っていれば、練習なんて馬鹿らしくなる。結果が出るかすら分からなければ、なおさらだ。

 

結果に価値などほとんどない。両手に光を保持しておくことはできない。労力と喜びを天秤にかけてしまえば、自我を保っているのは難しい。成功の味を差し引いて残る犠牲の量を、冷静に吟味してしまえば。

 

だからこそ。

 

非合理とわかっていても、なにかを続けるための理由として。

 

ひとは、練習それじたいに価値を見出す。そう思わないと、やっていけないから。

 

練習は偉い。努力は偉い。継続を肯定するお題目を唱えて、ひとは苦役を肯定する。結果の価値を直視するのが怖ければ、直視しなければいい。家計簿さえつけなければ、赤字は存在しないのと同じだ。

 

そして。そのお題目こそがおそらく、成功の喜びと呼ばれているものの大部分なのだ。