意味のつながり

改行の多い文章とは、どういう表現に適しているのか。

なにが書きやすくて、なにが書きにくいのか。

三日ほどつづけてみた結果、少しずつ、答えが分かり始めている。

 

文章の改行を増やすこととは、ただ改行を増やすというだけのことではない。

改行が増えると余白の面積が増え、ぱっと見の印象が変わるという視覚的効果はあるけれど、そういうことを言いたいわけでもない。

文章が縦に伸びてスクロールの手間が増える、というのももちろん主題ではない。

それらはあくまで、改行を増やすという行為の当然の帰結だ。

単なる表面的な影響だ。

わたしが今日したいのは、改行を増やすという行為に付随して、文章の展開そのものがどう変化するのかという話である。

 

改行が多いとやりやすいことの筆頭は、きっと列挙だろう。

箇条書きを自然に組み込めるからだ。

これは持論だが、なにかを列挙するときに一番見やすい方法はおそらく箇条書きだ。

したがって、文中に列挙を挟みたければ、箇条書きにしてしまうのが一番いい。

しかしながら、文章全体はそうはいかない。

たいていの文体では、箇条書きは文章にそぐわない。

もっと言えば、ダサい。

局所的には箇条書きがよかったとして、それをなんの説明もなく挟み込んでは、情緒が台無しになってしまう。

けれど、もし文章全体が箇条書きのような構造をしていれば。

文ごとに改行を挟んでいれば。

箇条書きは、まわりの雰囲気と喧嘩することなく、自然に組み込まれるわけだ。

 

逆に。

複雑な論理の展開は、改行が多いとやりにくそうだ。

意味内容の切れ目をあらわすはずの改行という記号が、それ以外の用途に濫用されてしまっているのだから、分かりにくいったらありゃあしない。

それに、これは書き始めて初めて気づいたことなのだが。

改行が多いと、なんだか接続詞が使いにくいのである。

この現象の生じる正確な原因は分からないけれど、推測できることはある。

それについて語ってみることにしよう。

 

改行とは意味内容の切れ目であった。

言い換えれば、改行をはさんで連続するふたつの文は、改行なしに連続するふたつの文と比べて、意味的なつながりが薄い。

つながりが薄いのだから、当然、接続詞をはさむことが少なくなる。

さっき取り上げた、箇条書きなんかがいい例だ。

とにかく。

結果として、改行の頭に接続詞が来るということに、わたしはきっと違和感を抱く。

それがおそらく、改行で接続詞が使いにくいという感覚の原因だとわたしは思う。

 

改行という表現の制約を、どうやって使っていけばいいか。

今日の議論をまとめれば、単純な内容を淡々と続けるのに向いている、ということになる。

思えば、そんな傾向は小説にもある。

ロシア文学をはじめとして、思想の深い純文学には、文字がぎっしりと詰まっていることが多い。

逆にライトノベルなんかは、白い部分の面積がかなり大きい。

きっとその原因は、紙面を埋め尽くしたいかどうかという美的センスなどではなく。

意味上のつながりの複雑さが、改行の量を規定しているということだったのだろう。