意見の一貫性 ②

意見を持つという行為、その具体性のなかへと入っていこう。

 

いくつかの社会問題について、わたしたちは自分なりの賛否を決める。すべてのものごとに関して決めてやる必要こそないが、いくつかについては決める。そうして理想的には、参政権を行使する――だれかの名前の形に投影した意見、それを書いた紙を投票箱に入れるという、個々の事象への賛否とはかならずしも一致しない行動によって。

 

実際に行う行為は、参政権と呼べるほど高尚なものではないかもしれない。わたしたちの意思表明は、法律で認められた手続きによるものとは限らないからだ。賛成あるいは反対、その二者択一を宣言するのは、あるいは自分の SNS かもしれない。匿名の掲示板かもしれない。家族との雑談かもしれない。実名匿名その他、あらゆる粒度と伝達範囲において、わたしたちには意志表明の可能性がある。

 

その可能性を可能性のまま留め置いておくことの是非については、ここでは述べないことにしよう。選挙に行けと言うつもりはないし、行くなと言うつもりもない。インターネットで政治の話をするなと言うつもりもないし、しろと言うつもりもない。書きたいのは、仮にその可能性を実現する意志がわたしたちにある場合、わたしたちは一貫性という制約から逃れられないということだ。

 

だが一貫性の制約を負ってまで、ひとつの問題に対し、自分なりの意見を表明することを決断したとしよう。

 

おそらくわたしたちの行動、ただ「賛成」「反対」の札を掲げるという単純なものではない。SNS に意見を書く場合を想像すれば分かりやすいが、わたしたちは賛否といっしょに、その理由も記述する。理由として客観的に成立しているかどうか……は問わない。とにかく、自分の中で理由ならば、それでいい。

 

その他の意志表明にも、同じ論理が働いていると言えよう。全世界へと向けて公開する場合と違い、意志を秘密裏に表明する場合には、理由を陽に説明する必要はかならずしもない。しかしながら自分個人の内面では、自分個人を納得させるための何らかの理屈が動いているはずである。すくなくとも、理屈に見えるなにかが。

 

そしてその理屈は、将来の自分の意見を規定する。

 

わたしはそれが恐ろしい。目の前の問題について、たとえばわたしは賛成しよう。だが同種の理屈が成立する、将来のすべての問題については? わたしは想像をめぐらせ、いまの問題の色々な箇所をいじくってみて、それでも賛否の変わらないことを確認する。あるいは賛否の変わる場合、どこに本質的な違いがあるのかを考える。あるいは、直感的に反対すべき気がした問題への意見を、論理の力によって変更する。そういう作業を繰り返して、わたしは一貫した論理と態度を組み上げる。わたしが思いつく限りにおいて、矛盾の発生していない態度を。

 

しかしながら。それはなにかを保証してくれるのだろうか? わたしの想像力の及ぶきわめて有限な範囲に矛盾がなかったとして、そんなに小さなサンプルは、全体についてなにかを語りうるのだろうか?

 

おそらく、そうではないだろう。

 

だからわたしは、一切の意見を躊躇してしまう。賛成も反対もする必要のない世の中の多くのこと、それをごちゃまぜにして置いておくための屑籠に、すべての問題を機械的に投げ捨ててしまいたくなる。意志を表明しなければ、一貫性に縛られることもない。なにも言わなければ、自由なままでいられる。完全なる逃げの態度、だが逃げるのが悪かどうかに、わたしは結論を出さない!

 

そして、おそらく。わたしはずっとそうであろう。ひとつの賛否を表明して、ほかの問題への賛否の可能性を、未来永劫にわたって減らしてしまうこと。意志表明というエリクサー、人生を通じて有限で、使えばそれだけ減ってしまう。

 

そして。自分がエリクサーを使えない人間であることを、わたしは良く知っているつもりだ。