帰国

 帰ってきた、日本に。

 

 こうやって自室でパソコンに向かっていると、まるで昨日も一昨日も同じ格好でそうしていたような気がしてくるが、そんなことはない。これはたしかに日常ではあるが、ようやく戻ってきた類の日常であり、わたしがこの一週間取り戻したく思っていたものであり、だがいったん享受してみると、ありがたみを感じられないタイプのことでもある。

 

 昨日の今頃はどうしていただろう。アメリカの田舎町のモーテルで起き、支度をして外に出たあたりだ。海沿いの町ではあるが朝晩はそれなりに冷えこんでおり、思わずスーツケースからジャケットを取り出し、だが空港は寒くないのではないかと考え直してリュックサックにしまった。レンタルの wi-fi の電池が空港に着くまでに切れたら帰れないような気がして、普段はしない注意をしていた。

 

 一昨日までは会議だった。昼食のランチボックスはけっして食べられなくはなかったがとりたてて美味しくもなく、朝と夜は出なかった。あの国の食事のコスト・パフォーマンスに対する信頼度の低さと、途中から開き直って直さないことにした時差ボケのせいで、夕食はまともにとらなかった。海外ではいつもそうしているように、部屋にいる時間のほとんどを寝て過ごした。

 

 つまるところ大げさな言いかたをすれば、身を削って生きていた。持続不可能な生活だ。

 

 そこに戻る必要はしばらくない。戻る予定もない。食生活のせいで若干痩せただろうし、その影響までチャラにすることは考えていないが、しょせん一週間で痩せる量などたかが知れている。とにかくとりあえずわたしはこれから持続可能な生活を送るわけであって、食事はちゃんととるし(そしてそれはまともな味をしているし)、向こうにはなかった湯船には浸かるし、布団で寝るし、ちゃんとしたデスクトップパソコンでゲームをする。

 

 戻ってきた感慨はとくにない。安堵は多少あるが。

 

 そう、安堵だ。何事もなく無事に帰ってこられたことに対してではない。不摂生と習慣の放棄で身を削り切る前に、その特殊な生活を終えることができたということに対してだ。

 

 眠い。この時間なら、つまり正常だ。

 

 時差には強い体質だが、向こうにいるときはずっと時差ボケをしていた。向こうには会議という予定があり、生活のリズムを規定してしまうほどに拘束時間が長かった。だがこちらにはそういう予定はない。リズムは存在しない。従って、時差ボケも存在しない。

 

 そのことに、一番の安堵を覚える。