特殊空間の普遍性

特に問題が起こらなければ、明日の今頃には家に着いている計算だ。海外という特殊な環境で過ごす時間も、実のところ日本にいないくらい割と普通のことなのだと薄々感じているこの状況も、もうそろそろ終わりになる。なんと言われようがこれは特殊な経験なのだと頑なに言い訳をして、だからいるだけで意味がある時間なのだと言い張って、ただ座ってなにもしないでいることを正当化できるのも、たかだかあと二十時間しかない。

 

日常はそして、意外と早く戻ってくる。わたしが特殊だと定義した時間をぶつ切りにして、どう屁理屈をこねくり回しても普段の生活としか呼びえない時間が、明後日から粛々と始まる。そして次の、何らかの意味での特殊性に分断されるまで、「普通」は続く。

 

特殊であることに慣れた、とはおかしな言い方だろうか。海外にいるという状態が特殊であってそれほど特殊ではないこととか、特殊と普通の境目がどういうふうになっているのかとか、そういうことをもうわたしはじゅうぶんに知っている。それを知らなかったころに特殊であったことは、今でもその特殊性を失わないままに、珍しくも予想外でもなくなっていっている。

 

それはきっと、嬉しいことだろうか。海外をはじめとした特殊なことを何度もこなしておきながら、それらをまだ普通でないこととして受け取っていられることは。そして経験から類推する能力によって、それらがどういうことなのかを理解し、ことばへと分解できることは。あるいは逆に、悲しいことなのだろうか? いくら経験を積もうが、わたし自身の「普通」の範疇は、一向に海外という世界を内包する成長を遂げようとしないという意味で?

 

それらの理解はきっと、どちらも正しい。

 

わたしの日常とは、自宅で過ごす日常だ。布団と机と風呂を往復し、昼に起きてメールとツイッターとニュースを眺め、研究とゲームを交互にこなしながら夜を迎える日常だ。たまに研究室か、とにかく東京都内のどこかへ電車で向かって、大したことのない用事を日帰りでこなす日常だ。なんということはない日常、日常を日常と定義し、特殊と区別する基準としての日常。

 

その日常にきっと、海外が入ってくることはないのだろう。つねに暇であれというわたしのポリシーにかりにわたしが反し、目が回るほど海外出張を繰り返す生活を送るようになったとしても、海外滞在とは特殊な状態であり続けるだろう。

 

だからこそ、わたしは安心している。会社を建てるとか宇宙に行くとか、そういうより特殊なことをこなそうと奮闘しなくても、わたしは特別な経験を積み続けていられる。そう、それこそ海外に行くとか、その程度に普通なことで。