時差ボケず

 眠いので十八時半に寝た。アメリカに来たてなので仕方がない。すべてを放り出してベッドに飛び込み、日付が変わる頃に一度起きて、いまこうやって日記を書いている。

 

 要するに時差ボケである。社会の行動リズムが変化し、身体に刻まれている概日リズムから大幅にずれた結果、意図しないときに眠くなったり逆に眠れなくなったりする状態。海外行きにはかならずついて回る症状で、二十一世紀も四分の一が経過しようとする現在でも、ただ待つ以外に有効な解決策は知られていない。

 

 だが、これは本当に時差ボケなのだろうか。いや、時差ボケであることを疑うつもりは毛頭ないのだが、ことわたしに限っては、時差ボケを胸を張って「ボケ」であると言い張る資格がないような気がするのだ。

 

 というのも。わたしは普段から、眠くなったら寝ているのだ。普段は昼に起きるが、予定があって早起きすると昼間に眠くなって、結局がっつり長時間の昼寝をする。不眠症を患ったことはないから、昼寝も夜寝も、基本的に快眠である。つまり、昼に寝ることが「ボケ」であれば、わたしは普段からけっこうボケている。

 

 だから夜以外に寝ることを、海外に来たときに限って時差ボケだと称するのは、ちょっとずるい。わたしにとって時差ボケとは、あくまでわたしが普段から不規則な生活をしているだけなのに、海外に来たときだけはそのことを正当化できる概念があるせいで、喜んでそういうことにしている、というだけのことな気がしてならない。

 

 昼に寝ることをわたしは普段から正当化している。眠いときはどうせなにをしようにもまともに手につかないのだから、開き直っていまは寝て、意識がすっきりしてから仕事を進めたほうがいい、と本気で思っているし、実際に実践できる立場だから、そうしてもいる。まあ、起きた後に本当にそれに手を付けるかというのは別問題ではあるが。

 

 海外に来てもその考えは変わらない。というか、むしろ強化される。海外ではなにかと気を張って疲れるから普段より睡眠を多く取るべきで、つまり寝られるなら時刻もなにも関係なく、いつでも寝るべきだ。睡眠に必要なのは規則性ではなく、トータルの時間の絶対的な長さである。わたしは不眠症ではないから、実際に長時間寝ることができる。

 

 というわけでわたしは、自分が時差にやられているとは思っていない。つまり、眠くなるのはたしかに時差のせいもあるかもしれないが、そこで寝るという選択を取るのは完全に自分の意思だし、寝るという選択を取らなければいけないことをとくに損失だとは考えていない。そしてそう考えている限り、時差ボケはわたしの味方である。