沈む太陽を追いかけて

西へと沈む太陽より、飛行機はわずかに遅い。

 

ちょうど時差のぶんだけ、今日は普段より長い一日。一日が三十時間くらいあればいいのに、とはよく夢見ることではあるけれど、それはこういう意味じゃない。もはや鳴っていることすら忘れてしまいそうになるゴーゴーという単調なエンジン音と、最大効率で人間を詰め込むために設計されたエコノミークラスの座席は、まとまった時間があれば是非ともやりたかったはずのすべてのことに対するやる気を、根こそぎ持って行ってしまう。

 

もちろんそんなことは織り込み済み。申し訳程度のリクライニングを全部倒して、身体に毛布を丁寧にかぶせてヘッドレストを直角に立てる。残さず食べられる機内食が出てきたことに、どうしてそんなことをわざわざありがたがらねばならぬのだという理性の声を努めて無視して、運が良かったと自分を鼓舞する。普段より長い昼間に、普段以上になにもしなかったという事実は、いまさらわざわざ悔やむようなことではない。

 

十三時間の座りっぱなし。そうやってフライトの時間のすべてを無と仮定して、無為に過ごした時間の長さを乱雑に見積もるのは、言い過ぎというよりむしろ過小評価。空港という場所はおよそひとを待たせるためにできているような場所で、何度も何度も列に並ばされた挙句、もうそこにいる飛行機は乗せてくれずに搭乗口の前の椅子に放り出されてまた待たされる。空港で待たされるのはなにも客だけではないようで、飛行機そのものが滑走路の順番待ちに巻き込まれて、その場に数十分佇んでいたりする。佇んでいるのに、ベルト着用サインはしっかりと点いていて、トイレにも行けない。

 

そんな虚無の十数時間を、意外と短く感じるようになったのは、いつごろからだろうか。

 

ものごとを為さんとするのに、体力よりも気力がボトルネックになるようになってはや数年。無気力でいることに慣れ、家で無為に過ごす一日にも慣れ、結果としてどうやら、わたしは退屈に耐えられるようになった。エコノミークラスの座席は確かに腰と背中に悪いけれど、言ってしまえばそれだけだ。狭苦しいということを除いて、苦痛はそれほど大きくない。

 

歳を取ると時間は短く感じられるらしい。ということはおそらく、わたしは歳を取ったのだろう。歳を取ると、気力というものがなくなってくるらしい。やっぱり、わたしは歳を取ったのだろう。

 

だが歳を取ると、我慢が効かなくなるらしい。その点に関しては、むしろ逆だ。歳を取り、退屈を我慢できるようになり、無の時間を手懐けるすべをわたしは手に入れた。

 

それが良いことと呼べるのであれば、歳は歳でいいものだ。