視力 ②

 回答その二。みな視力はわたしと同じくらいである。つまり、見えていない。見えていないので、当然分かっていない。

 

 物理的、あるいは統計的にもっとも納得のいく回答はこれである。スクリーンの字は物理的に小さく、たいていの参加者の視力は矯正後でも二・〇や三・〇にはならないのだから、後ろのほうに座れば見えないに決まっている。見えているとしたらつじつまが合わない。そして世の中は残念ながら、つじつまが合うようにできている。

 

 この回答の問題は、人間の理性をバカにしているところである。というのもこの考えに従うなら、参加者は好きで会議に参加しているはずなのに、わざわざ最初からスライドが見えない場所に陣取って一時間以上そのまま座り続けている、ということになるからだ。これがたとえば大学の必修の講義で、つまらないから聞く気もないのに出席を取られているから出ざるを得ない、ということならまだわかるが、状況はそうではない。出席義務も何もないのだから、ただなんとなくそこにいる、としか考えられない。

 

 いや。これがそこらの高校生なら、そういうこともあるのかもしれない。あるいは真面目だけが取り柄の社会人であれば、その場にいるということを真面目さだと勘違いして、聞くことのできない場所に分からないままにただ座っていることもあるのかもしれない。だがやはり状況は違う。このような会議に参加しているひとたちの知性をわたしは信頼しているし、信頼したいと思っている。

 

 というわけで、この二つ目の回答は自然であり、もっとも事実に近そうではあるものの、わたしが信じたい回答ではない。事実がそうだとすれば信じたくなくても信じなければならないが、もしかすると事実はそうではないかもしれない。

 

 回答その三。スライドはだれも見えていないが、みな英語と学問がよくできるので、文字など見えなくてもどうにでもなる。

 

 そうかもしれない。にわかには信じがたい回答だが、これが正しいとするなら少なくとも、参加者への信頼を継続することはできる。その場合、文字が読めていても発表に置いていかれるわたしがものすごいバカだということになるが、それはまあ、周りの人間を信頼できないよりだいぶいい。

 

 となれば別の問題が発生する。わたしはスライドを、参加者は平均的に自分くらいの理解力と視力と聴力を持っていると考えて作るのだが、その場合これはよくない方針になってしまう。わたしはわたしの発表をわたしくらいの人間に分かってほしいから、この方針を撤回することはないのだが、良くないものは良くない。