風邪と気力と

外泊から帰ってきたら、風邪を引いたようで熱が出た。意味不明な量の汗をかきながら今、エディタに向かっている。

 

風邪とはなかなかに退屈なものだ。安静にしているのがいちばんと言って隙あらばわたしを寝かそうとしてくるが、それでもずっと寝ているわけにはいかない。比較すればだいぶ長く布団の上に居られる性質だとは思うが、一日二十四時間というわけにはやっぱりいかない。いくらかの時間わたしは起きて、なんらかの活動をしていなければならない。けれどいったい、何をすればいいのか。

 

普段ならやることはそれなりにある。あるからと言って常にやっているのかと言われればそうでもないが、とにかくやることはある。書きかけの論文を進めてもいいし、その他の文章を書いてもいい。本を読んでもいいし、パズルを解いてもいい。それらのすべてが可能な行動であって、元気ならわたしはきっとそのどれかをできている。

 

けれど残念ながらそれらのすべては、十分な気力がなければ進められない。

 

風邪とは体力以上に気力を奪うものだ。少しでも頭を使おうとすれば、気だるさが脳にストップをかける。少しでも身体を動かそうとすれば、四肢の痛みが顔を出す。そうしてひとは、床に臥せっている以外の選択肢を失う。ただ臥せっているだけなら、もう飽きるほど続けているのにも関わらず、だ。

 

ありあまる時間と足りない気力。それを埋めるには、気力を消費しない行為が必要だ。頭を使わず、身体も使わず、それでいて何か行動をしていると思えるような行為。寝ているのと同じような労力で、十四時間寝た後にさらに寝ることよりもわずかばかり多くの幸福を得られるであろう行為。できればそれでいて、生産的と思われるだろう行為。

 

そういうものをわたしは、長いこと探し求めている気がする。

 

残念ながら、それは見つからない。病気のときでなくても、気力がないときに必要としているその手の行為は、いくら探しても現れてはくれない。ということは、そんなものはおそらく存在しえないのだろう。気力を使わない行為にわたしがいくばくかの生産的な喜びを覚えるということは、きっとほとんどありえないのだろう。

 

となれば、こういうことも言えるのかもしれない。幸福とは、気力を変換してのみ得られるなにかなのだと。

 

気力はいろいろなものになる。うまく使えば幸福にもなるし、別の使い方では怒りにもなる。悩むことにすらきっと気力は必要で、青春の悩みが安易な結論になかなか到達しないのは、きっと彼らに気力が有り余っているからだろう。逆に言えば大人になるとは、細かいことに悩むだけの気力を失ってゆくということなのかもしれない。

 

そう考えれば、気力はもったいない。喜びに変換できるかもしれない限られた量を、別のものに変えてしまうのはきっと愚かだ。だからやはり、気力を必要としない行為がわたしには欲しい。

 

もしそれが悲しかったり辛かったりするものでも、きっとわたしは構わない。悲哀にも気力が必要な以上、それはきっと、大した悲しみでも辛さでもないだろうから。