旅行禁止令

これまで当たり前のようにやっていたなにかが禁止されたとき、わたしたちはどうするか。新しい規則といえども普段とは違ってうわべだけのものではなく、実際に強大な効力を持っていた場合、どういうふうにふるまうか。これまでの習慣を守るためにルールを破るか、それとも、素直に従って新しい生活様式を受け入れるのか。

 

それはもちろん、なにが禁止されたかによるだろう。わたしは従いますとか従いませんとか、そう一概に言えるものではない。禁止されたものが自分にとって重要なものだったのなら、わたしたちは迷わずルールを無視する。全然重要でない、惰性で続けてきたようななにかであれば、わたしたちはルールを順守する。そしてその中間なら……わたしたちは迷い、結局、守るか破るかはその都度判断しよう、ということになる。

 

さて。なにが禁止されたのならばルールを破るのかというのは思考実験のいいテーマだけれど、その問いに具体的に答えようと試みるつもりはない。わたしの観測からすれば、ひとは一般に、そういう状況を想像している段階ではルールを破ると主張する。けれど妄想段階でいくら堂々としていたひとだって、実際の決断の場面になると、破る破ると言いながら結局従っていることが多いように見える。将来の自分がどういう決断をするかというのは、実際にそのときになってみないと分からない。だからまあ、思考実験なんてくだらない。

 

けれど、すでに決断を分析するならばなにが言えるだろう。わたしたちが特に抵抗なく守ったルール、ルールを守っている自分をそう苦々しく思わなかったルール。それは自分自身が、禁止されたその要素をあまり重要視していなかったことを意味しているだろう。失って初めて重要さに気づくものがあるとはよく言われるが、失ってみて初めて、どうでもよかったと気づくものだってたくさんある。

 

明日からわたしは海外である。例のウイルスが跋扈する前はけっこうな頻度で外国へと飛んでいたわたしだけれど、むろん禁止されていた時期は行っていない。一昨年の一月、流行のぎりぎり以前にアメリカに行ってから、つい二か月前まで日本から出なかった。

 

けれどべつに、海外が恋しくなるということはついになかった。

 

海外に行くことは、ある種のステータスとしてみなされることがある。自分がやろうとしていることが、日本に収まり切らなかったことの証明として。それとは別に、純粋に海外経験を愛する気持ちがある。そしてその気持ちは、海外というステータスを得たい気持ちと簡単には区別できない。

 

失って初めて気づくことがある。海外が禁止され、ステータスとしての機能までもが一時的に失われた結果、わたしは海外を待ち望まなくなった。つまりわたしは、海外がそう好きではなかったということ。海外に行くのはきっと、行った国の数を競うためだったということ。

 

まあ。とはいえ別に、旅をしなくなるわけではない。わたしが海外に行く理由が、海外が好きだからではなかったとしても、わたしは海外に行く。仕方ない。だって、用があるのだから。