外部記憶 ③

 このご時世、ひとの発言は不特定多数の目に留まるようになったし、それが記録にも残るようになった。ひとひとりが見ることのできる人間の数は飛躍的に増し、その一部が遂げるとてつもなく急速な豹変をわたしたちは、しばしば身近に、リアルタイムで見ることができるようになった。だからその手の寓話はいま、八十年弱の時を経てむしろ、社会によくなじむようになってきている。

 

 ひとつの信念を強硬に信じていたように見えるひとが、一年も経たないうちに真逆のことを言いはじめたとき、わたしはそのひとの脳内を覗いてみたい、と思う。ついこの間の発言とまったく矛盾した言動をとっているということと、かれらはどうやって折り合いをつけているのか。そんなことのできる方法はいくら考えても思い浮かばなくて、すぐにわたしは消去法の結論を出す。きっとそのひとは、どうしようもないバカなのだ。

 

 バカだと断じれば一度はすっきりするが、それで疑問が解決するわけではない。バカはバカでいいとしてバカにも色々あり、バカはバカとしてそのひとはいったいどういう類のバカなのかということを理解する必要がある。ではどういうバカなのか、と言えば、やはり何通りかの解釈がある。

 

 ひとつ、矛盾に気づいていない。バカというのはつまり、抽象化の能力が低いということだ。かれらはきっと、矛盾するふたつの正義を同時に受け入れられる――生まれつきの完璧な二重思考ができる。そしてかれらの二重思考はきわめて自然なものであって、その概念が導入された架空の四十年前の世界のようなややこしいお膳立てをしてやらなければ現れないようなものではないのだ。

 

 これもこれで残念な物語ではあるのだが、同時にまだ理解できる物語でもある。というのも、わたしもきっとやはり、なんらかの二重思考にはとらわれているだろうからだ。具体的にわたしがどういう二重思考をしているのかは自分では分からないが(していることに気づいたなら、なるべく修正を試みているつもりだ)、とにかくわたしの自己愛は、自分がいっさいの二重思考から自由であると断言できるほどには強くない。そしてわたしが二重思考にとらわれうる以上、わたしがバカと呼ぶ姿はまた、わたしの延長線上にあるわけである。

 

 もうひとつ、かれら自身は矛盾に無頓着である。かれらは自分が矛盾していると知っているが、そのことに罪悪感や抵抗を覚えない。このケースにおいて、かれらはまだ賢い。場合によってはわたしのほうがバカかもしれない。依然としてわたしはかれらを軽蔑するだろうが、かれらのほうが生きるのが上手だという意味で、軽蔑と尊敬を両立させることもできるだろう。

 

 そして次の可能性が、はるかに暗澹たるものである。