意志のあるあなたへ ②

わたしが尊敬する狂人たちを、世の中は正当に評価しない。その様子を、わたしはいつも残念な目で見ている。

 

といっても、かれらを排斥しないでほしいと言っているわけではない。いかに自分でものを考えているひとだとはいえ、わたしたちの一様性にとってかれらが邪魔な存在であることは変わりないからだ。その他大勢と違って彼らは話が通じる、けれども話ができるからといって、こちらの陣営に引きこめるとは限らない。

 

ある意味では、むしろ積極的に排斥すべきだとすら言ってもいいかもしれない。状況によって立場を乗り換えるということをかれらはしないからだ。誰かに流されて反社会的な態度を取っているひとびととは、生まれた時代が違えばまだ上手くやって行けたかもしれぬ。けれどかれらの思想は本物の思想だから、仲よくなんてしようがない。

 

わたしはかれらに敬意を抱くけれども、それももしかすると危険なのかもしれない。筋の通った議論を真剣に聞けば、納得させられ、向こう側へと引きこまれてしまうかもしれないからだ。恐ろしいことに、そういうことは完全に正気のままにでも起こりうる。未来のわたしが、社会構造から排除されながらその事実を完全に客観的に理解している可能性を、わたしはまったく否定できない。

 

それでもわたしは、かれらへの同情を禁じ得ない。社会に排斥されることへの同情ではなく、その他の大勢と一緒にされてしまうことを。かれらの思想は極端ではあれど、かれら自身が必死でつくりあげた思考の結晶なのだ。耳に心地よいことばを鵜呑みにして粗雑な陰謀論で満足する、そんなくだらないはぐれものたちとは違うのである。

 

かれらへを雑に批判する声は多い。そのひとが考えて発信している具体的な内容と論拠ではなく、特定の問題に対してどちらの味方をしているかだけを根拠に、ひとの価値を見積もるひとは多い。わたしたちの一様性と異なる側の肩を持った瞬間にいっさいの議論が詭弁になるのだと、そう信じているひとはたくさんいる。

 

世の中がかれらを排斥するということは、このさい受け入れよう。なにせこの世のマジョリティは、一様性をただなんとなく受け入れただけの思考停止の正義気取りなのだ。特定の思想に自分がなぜ従うかという問題にすら興味をもたないひとびとが、他人の思想の内容を吟味できるわけがない。

 

けれどもそうではない、論理的思考力と観察力とを武器に世の中を渡り歩いているように見えるひとでも、かれらを粗雑に扱っていることが多い。ああいうひとたちですら、他者をただしく理解しようとしないのだろうか? かれらが書いている内容を、いっさいの先入観と敵対心を排して、正確に読み解こうとはしないのだろうか? 読解力が重要だと日頃から言っておきながら、みずからのことは棚に上げているのだろうか?

 

考えた結果、かれらを悪だと結論付けるのは構わない。同じ思想を見たことがあるから考えるまでもないという態度も理解できる。けれどもろくに見もしないで、そこらへんの陰謀論者と同一視するという現状の態度に関しては、わたしの許せる範囲を超えている。

 

もしかすれば。インテリたちは、分かっていてそうしているのかもしれない。かれらの論理には一定の筋が通っており、危険だから排斥せねばならない。排斥のプロセスは、その段階でかれらが信者を増やしてしまわないように、なるべくさりげなく行われなければならない。だからかれらへの批判を、その他大勢への批判に混ぜ込んでカモフラージュする。

 

真実がそんな政治的な理由であれば、わたしはインテリたちに謝らねばならないだろう。読解力がないと言って申し訳なかったと言わねばならぬだろう。そうであってほしいとわたしは思う。しかしながらいまのところ、謝罪の必要に駆られたことはない。