外部記憶 ④

 三つ目の可能性。明らかな自己矛盾を来たしているらしき人間の脳内では、矛盾のない歴史が信じられている。

 

 明らかに矛盾したふたつの、だが時期を異にする言動。矛盾があればそれに気づくだけの注意力があり、また矛盾を無批判に受け入れることのできない脳が、これらを矛盾なく両立させる方法がひとつだけある。簡単だ。ふたつめの言動の時点で、ひとつめの言動の記憶が存在しなければよいのだ。

 

 そしてそのために不可欠な作業がまさしく、記憶の改変である。

 

 では記憶はどうやって改変するか。最初に書いた通り、洗脳と呼ばれる方法が一番普通だろう。事実と異なる物語を繰り返し聞かされれば、ひとはだんだんそれを真実だと思い込むようになる。わたしを含め、きっと全員に対して有効な方法だ。

 

 必要な物語の量はおそらく、ひとによって異なる。世の中には洗脳されやすいひととそうでないひとがおり、されやすいひとの記憶はたった数回の会話ですっかり改変されてしまうだろう。物語においては質もまた重要で、ひとがある物語を簡単に信じ込むかどうかには、それが論理的・感情的に受け入れ可能なものかどうかがかかわってくるし、論理と感情のどちらがより効きやすいかもまた、ひとによって異なる。

 

 物語はかならずしも、外部から提供されたものとは限らない。みずからの内部に、自分がつくりだした嘘でもよい。そして場合によっては、物語をわざと生成し、信じ込むことだってできるのかもしれない。

 

 もっともわたしの考える限りでは、脳はそこまで都合よくはできていない。いかにそれが都合がいいからといって、あからさまな嘘を作って信じ込む、というのは少々難しい作業である。というのも、その嘘を作ったのがほかならぬ自分自身であるということをわたしたちは知っているからである。雑な嘘では自分は騙せないし、逆に嘘を丁寧に作ってしまえば、今度はその嘘を作ったという記憶を抹消するために、また新たな嘘を重ねなければならなくなる。

 

 だがもしこの考えが、わたしの想像力の限界に過ぎなかったとしたら。自分自身を騙そうと画策しながらそう画策した事実を忘れるということが実際に可能であるばかりか、世の中の大部分にとってはすこぶる簡単な操作だとしたら、どうだろう? あるいはわたしもまた、そのようなことの可能な人間であるとすれば?

 

 それはこれまでのものより信じがたい可能性ではあるが、この一貫性にとぼしい世の中に対する、ひとつの可能な解釈ではあるだろう。