外部記憶 ②

 自分の過去について他人から聞かされた話が、自分本来の記憶とごっちゃになって、それが最初から自分の脳のなかにあったような気がしてくるまでにはきっと、長い時間が必要だとわたしたちは信じている。

 

 けれどももし、人間の記憶というものがものすごく脆弱で、そうやって脳がすっかり騙されてしまうまでにほんの短い時間しかかからないとしたら、どうだろう?

 

 まず言えるのは、それが具体的な恐怖であるということだ。もしひとがそれほどまでに洗脳されやすく、またそういう洗脳が実際に可能なプロセスであったとしたら、わたしたちは他人の思い通りに行動させられてしまう。ほんの少しの悪意に晒されればわたしたちは、やってもいないことをやったと思い込み、虚偽の自白をして不利になる。場合によっては洒落にならない人生の損失を被る。そういう恐ろしい可能性が、記憶の改変には潜んでいる。

 

 次に言えるのは、それが抽象的な意味でもまた恐怖だということ。わたしたちを現在かたちづくっているはずの記憶のほとんどすべては、外部の記憶媒体を経由して植え付けられたものであるかもしれないのだ。じゅうぶんに過去のことならそれもまた受け入れられるし、長期的な人格の変化として理解されうるだろう。だがきわめて短期的な、直近の喜びとか失敗の反省とかさえもまた改変可能な記憶なのだとしたら、わたしたちはいったいどこにわたしたち自身の一貫性を求めればいいのか? 答えはどこにもない。

 

 そして最大の恐怖は、世の中にはときおり、そう考えなければ説明がつかないような事象が存在する、ということである。

 

 こんな随筆をきっと、だれしも読んだことがあろう。戦争中、厳しいことで知られる上官が筆者にはいた。上官は国の理想を体現したような人で、自分自身と部下に関するありとあらゆる判断を国是に基づいて行っていた。冷笑的な筆者はその規範の矛盾に気づいていたが、上官の前ではとても、そんなことを言える雰囲気ではなかった。

 

 戦争が終わり、筆者は上官と再会する。そのとき上官は、当時の彼が忌み嫌っていたはずの、開放的な敵性思想に染まっていた。戦時中の筆者が思い描いていた冷笑の世界からただ絶望だけを取り除いたような、あっけらかんと明るい新たな信仰。筆者はなぜ、と思う。なぜお前はこんなに早く自分自身の核を手放すことができるのか――冷笑に耽っていた自分ですら、その古い思想を捨てきれずにいるのに!