期待と二重思考

学問という海へとつづく港に立って、ゆるやかに打ち付ける青く澄んだ小波を眺め、まだ若かりし日のわたしたちは、それこそが海だと錯覚する。よく晴れた日に防波堤の内側に漕ぎ出すために必要な最低限の小舟の舳先に立ってわたしたちは、用意された数週間の教育課程を乗り越えたのならば、もはや大海原と自分自身の間を隔てるものはなにもないはずだと夢想する。

 

それが誇大妄想だと気づくのはそれほど難しくない。学問の世界に一歩踏み出せばたちまち、教科書に書いてあることが初歩の初歩に過ぎないこと、そして大海原のいたるところに先人の通った形跡があることをわたしたちは理解する。なにかを学んだあとに見える世界はかならずと言っていいほど、学ぶ前に想定していた世界よりはるかに大きい。素人の想像力は、世界の現実の姿をぜったいに凌駕できない。

 

そういうことを嫌でも思い知らされる経験を、わたしたちはかならずしている。この教科書の次にはこれを読もうなどと、できもしない計画を立てて破綻し、おのれの想定の甘さを突き付けられる。そうやって生まれるのが分野への敬意というか、雄大さへの素直な感嘆であって、わたしたちはみな、その感動を共有している。

 

にもかかわらず。わたしたちは未知の分野を過小評価する。自分自身の分野の巨大さに圧倒されながら、そこに漕ぎ出している自分なら、ほかの分野を学ぶなど造作もないはずだと考える。付け焼刃の勉強で適当なことを言うときのわたしたちに、自分自身の分野に向けているような敬意はない。大きいものは自然と敬うべきだと言うのと同じ口で、大きいはずだと知っているはずのものを小さいと断定して、わたしたちは憚らない。

 

わたしたちの敬意は矛盾している。だがそれを責めるのは酷かもしれない。というのも、ひとつの原則に完全に従える人間はいないからだ。架空の三十九年前の体制主義社会、ひとびとは矛盾するふたつの主張を同時に信じる能力を要請されていた。かれらの二重思考をわたしたちが生々しく感じることができるのは、現代が体制主義社会だからなどではまったくなく、なにも強制されなかろうが多かれ少なかれそうするのが、わたしたちの行動様式そのものだからだ。

 

大海原に漕ぎ出す前、港町から見える範囲だけを海だと信じていた少年期。水平線までたどり着ければあとはなんでもできるのだと素朴に期待していたころの感性を、わたしたちはまだ持っている。海は小さいはずだと確信し、知らず知らず青臭いことを言う。そう考えれば、矛盾した大人たちも、案外かわいく見えてくるかもしれない。