分かったような分からないような

専門の話を振られると研究者はとたんに喜び、やおら饒舌に語り始めるものだと相場が決まっている。そういう話を聞くのが嫌いなひとは多いけれど好んで聞きたがるというひとも意外いて、かれらはうんうんと頷きながら未知の話を真剣に聞き、その熱心さが研究者を舞い上がらせる。かれらが素朴な質問を二、三して、もしそれがあながち的外れでもなかったならば、研究者はもう有頂天である。

 

ステレオタイプな研究者とはそういった、ある方面では打ち解けやすい人種である。専門について語っていいと言われればもう止まらない、そういうひとは身の回りにもけっこういて、そういうひと同士が出会ったなら即座に自分たちだけの世界へと入り込んでゆく。どちらかといえばわたしはそういうタイプではなく、宴会のテーブル席の中央を陣取って専門の話で盛り上がり始めた二人を、ただ横からぽかんと眺めていることのほうが多いように思う。

 

そうあるのはわたしの専門分野ゆえか。それがすべてではないが、理由のひとつではあるだろう。専門を同じくする相手以外に専門の話は通じず、ともすれば同じ専門の相手にも通じず、やっていることの複雑さが宴席のことばにしうるものを超えている分野。相手の話がちんぷんかんぷんである経験を繰り返すうちにわたしは自分から専門の話をしなくなったし、することを面白いとも思わなくなり、代わりに子供だましの説明で相手を分かったような分からないような気持ちにさせる、そういう技術を身につけることを良しとしてきた。

 

テレビや動画サイトで、専門について語っているひとたちがいる。一般向けの説明だから、かれらの多くはきっと、子供だましをよしとせざるをえない環境にいる。かれらは事務的な笑顔で、専門をかいつまんで説明し、視聴者は分かったような分からないような微妙な気持ちになる。けれども画面の中にもたまに、自分の専門を語るのが楽しくて楽しくて仕方がないような、そんな笑顔の専門家がいることも、またたしかなのだ。

 

専門が違えばわたしもそうあれたかと言えば、きっとそんなことはない。けれどやはり、かれらを羨ましく思わないと言えば嘘になる。かれらの専門はわたしの専門よりはるかに一般受けして、紙とペン以外の物理世界に影響をおよぼし、夢の未来世界へのビジョンを語ることができる。

 

現実世界の役に立つことにわたしは興味はない。だが SF の題材にはなってみたいし、かれらと違ってわたしたちの分野のどんな未解決問題が解けたところで、それはたぶん SF にはならない。未来への真実は不要。でもせめて、見栄えのする嘘くらいはついてみたいと、憧れないこともない。