外部記憶 ①

 記憶にない昔の出来事について、思い出話を振られることがある。記憶にないものは思い出ではないので、覚えていませんと答える。

 

 相手の記憶もあいまいなら、話はそこで終わる。互いにあまり覚えていないことについての話に、花を咲かせることはできない。忘れちゃったね、はは、とひとしきり笑って、あるいは暗闇に零れ落ちた記憶を掬い出す無謀な試みに失敗して、話題はより確実な内容へと移ってゆく。

 

 だがたまに、自分はまったく覚えていないことを、まるで違う時間の流れを生きてきたかのように鮮明に、相手だけが覚えている、ということがある。

 

 それが事実なのかはもちろん、厳密な意味では分からない。過去の事件を完全に復元することは原理上不可能だから。人類は歴史上、相反するふたつの記憶のどちらが正しいのかということをめぐって、数えきれないほどの不毛な言い争いをしてきた。そして、運よく記録や状況証拠が存在するごく少数の場合を除いて、真実は時間の淀みに取り残されてきた。

 

 今回のケースはそれには当たらない。真実という土俵の上でふたつの記憶を戦わせようにも、記憶はひとつしかないのだから、不戦勝である。はっきりとした記憶を持つと主張する相手の記憶が真実だとしてもそうでないとしても、意図的な嘘だとしても無意識の改変だとしても、そんなことは問題にはならない。ひとつしかない歴史とは、すなわち正史である。

 

 だからして、それと戦わせる記憶を持ち合わせていないわたしたちは、相手の主張するその、唯一の歴史とやらを認めなければならない。

 

 最初のうち、わたしたちは疑うことができる。その歴史を語ったり参照したりするとき、それはあくまでわたしにそれを教えた相手の記憶の中にのみ存在した歴史である、ということを、たえず認識していることができる。あるいはわたしたちは忘れることができる。歴史がひとつしか存在しなかったところで、その歴史を聞いて知ったという歴史をまた忘れてしまえば、記憶はまたもとの、あいまいな無知へと還ってゆく。

 

 だがしばらくすると、半信半疑のうちに受け止めた、受け止めるしかなかったその歴史は、次第に真実へと近づいてゆく。相手の記憶でしかなかったはずのその記憶をわたしは共有し、相手の心内風景でしかなかったはずの景色はしだいに、自分自身の吸った空気になる。

 

 自分自身に関する歴史はそうやって、対話の中でかたちづくられ、語られるようになる。だがそれまでには、どれほどの時間が必要だろうか?