数学的信念

いつどこでのことだったかはもう思い出せないけれど、算数だったか数学だったかの授業で、先生がこんなことを生徒に問うた。それなりに頭の良いところに通っていたから、きっとその場のだれもが答えを出せるどころか、なぜそんなことを聞くのか訝しみすらしたことだろう。小学校の低学年でもわかるような質問、だれもが簡単に絵を描ける平面図形の問い。「二等辺三角形の定義はなんでしょう?」

 

いつのことか思い出せないとは言ったが、きっとそう大きくなってからのことではなかったのだろう。高校生くらいにもなり、それなりの自尊心と羞恥心を心に宿すようになった生徒は、簡単すぎる問題にはあえて答えようとはしないものだ。名門校と呼ばれる高校に通い、賢いとか非常識だとかいう褒めことばをずっとかけられつづけて育ってきた若者たちにとって、二等辺三角形の定義なんて答えるほうがはずかしい。

 

けれどそのときはまだ違った。わたしたちはまだ若く、素直だった。だれかがすぐに問いに答え、そしてそのことをだれも疑問に思わない。その生徒は、もしかしたらわたしだったかもしれないが、とにかく言った。「角度のうちのふたつが等しい三角形のことです」

 

「それは性質だね」先生は答えた。「定義はどれだ? 二等辺三角形は、どういうふうに定義される?」賢明にもかかわらずまだ算数を忘れていない読者ならばもう気づいていることと思うが、先生はこう答えさせたかったのだ。「二等辺三角形の定義は、辺のうちのふたつの長さが等しい三角形のことです。角度のうちふたつが等しいことは、この定義から証明できます」

 

まあ、確かに、そうだ。厳密に言えば。生徒は数学的に間違っていて、先生は数学的に間違っていない。これは算数か数学の授業なのだから、数学的正しさはなににもまして優先される。正しい態度。なにも間違ってはいない。

 

けれど当時のわたしは、なんだかもどかしい気持ちになったことを覚えている。そんなことを言われても、なんだかこう……。そうだな。それは数学ではあるかもしれないけれど、わたしが数学だと思っているものの範囲の外にある。そんなことをあいまいに、思った記憶がある。

 

いまならそのもどかしさは説明できる。数学的な面でもそれ以外の面でも、思えばわたしはずいぶん成長したものだ。その両方が育たなければ、けっしてあの感情は説明できなかったろう。そう思える説明がある。

 

そう。わたしは許せなかったのだ。数学的には、同値な定義のうちどれかが正しい定義かを決めねばならぬということを。数学ではないことばに翻訳するならわたしには、数学というものが人間が恣意的に決めたなにかを問うことなど、あってはならないという信念があった。

 

数学は神がつくり、数学の記述は人間がつくった。そう言われることがある。数学を語るために神なんていう数学的でないものを持ち込んでいる時点でわたしはその言説が好きではないけれど、それでも近しいことは感じているようだ。数学で問うていいこととは、数学の自然に存在する部分だけであり、人間の作った記述のほうではない。そういう信念が、どうやらわたしにはある。

 

もっとも、それが自明な信念ではないことは知っているつもりだ。数学の存在と記述を分けられるかどうかという問題が、およそ哲学的な問いとはそうであるのと同じように難問であることは理解している。けれど、そんなことはどうでもいい。

 

さいころのわたしが感じていたもどかしさ。それはきっと、数学でも哲学でもない問題なのだ。