同一性と相違点

まったく異なるふたつのものの間に同じ構造を見出すという行為は、ものごとの本質を明白に抜き出しているかのように見えて、実はまったくなにも明らかにはしていない。その過程でなされていることは対象の恣意的な一面を切り取り、共通の理屈へとこじつけることであって、そうやってものごとを単純化すればするほど、本質は観察者の手からこぼれ落ちてゆく。

 

たとえば。そろそろ陰謀論者たちの時限式の記憶がすっかり消えたころだから言えることだが、数年前の某ウイルスのワクチンの接種には、ひとを選別するという役割があった。大多数の人間は新開発のよく分からない液体を腕の筋肉に打ち込まれることにたいした抵抗を覚えないか、覚えたところでわざわざ反対するほどの気概はなく、だからあえてワクチンを接種しないということは、異常な人間の証であった。

 

そういう意味で言えば、反対派がみずからを弾圧されたキリシタンになぞらえてこのシステムを踏絵と呼んで見せたのは、倫理はさておき論理的ではあった。このことを論理的に表明するだけの言語能力をかれらは持たないし、持とうと試みたこともないだろうが、それでも彼らの主張しようとしているアナロジーは明快で、大きな瑕疵はどこにも見当たらない――ワクチンも踏絵も、たいていの人間がとくに疑問を抱かない行動を事実上強制することで、疑問を抱いている少数派を炙り出すシステムだという点で共通している、と。

 

わたしたちのだれかがかれらの主張を批判し、江戸幕府の残虐と現代人の合理性は違うのだと主張したいとしよう。だがかれらの理屈は偶然にも合理的だから、ふたつの事象の類似性そのものを否定しようとするのは、勝算の薄い賭けだと言わざるを得ない。

 

これらに差をつけられる論理を、現代人はこれでもかと持っている。信教の自由や公衆衛生をはじめとした正当化手段の数々には、もはや必要に応じて恣意的に引っ張り出せる正義の論理の引き出しの多さこそが、現代リベラルを定義する性質なのだとすら言いたくなってくる。

 

これらのひとつを持ち出して否定の道具とした瞬間、そのひとはやはり、真実から永遠に遠ざかるだろう。相違点ひとつをもってものごとの違いを語るのは、共通点ひとつをもってものごとの同一性を主張する陰謀論者の論理とまったく本質的な違いはない。だが馬鹿正直に真実を追い求めるやつなどいないのだ。陰謀論者もリベラルも、意図してかせざるかは定かではないが、みずからの陣営の勝利を第一に考えるのだから。