目的としての暗記

 暗記は嫌いだと昨日は書いた。とくに脈絡のない、覚える以外にどうしようもない暗記作業は。けれど過去の記憶と現在の知識を掘り返してみれば、その例外としていくつか思い至るふしがある。必要もないのになぜだか覚えたくなった、役に立たない暗記事項が、わたしにはいくつかある。

 

 最初の記憶は三歳のころにさかのぼる。幼稚園児のわたしは当時、国旗を覚えるのにハマっていた。全部を覚えたわけではなかったはずだが、それでもおそらく百以上の国について、国と旗の対応がついていたはずだ。模範的な幼稚園児として、紙に旗を描いて家に飾ることまでしていた。

 

 どの国がどのあたりにあるのかは当時、たぶんそれほど知らなかった。オーストリアとオーストラリアの区別はおそらくついていたが、リビアについて知っていることは、国旗が緑一色だということだけだったような気がする。だから当時のわたしにとって、国旗とは純粋に、ほかのなんの知識とも紐づけられていない知識であった。スペインの旗の紋章がなにものなのか、わたしは考えもしなかった。記憶はあいまいだけれどわたしはきっと、ネパールの旗って変なかたちだなぁ、と、ただ漠然と感じていたのだと思う。

 

 小学校になると、算数好きが必ず覚えるあれを覚えた。そう、円周率である。円周率を覚えたことがあるかと数学科の人間に聞くとまずまちがいなく、べつに全員が覚えているわけではないよ、まあわたしは何桁言えるけどね、という答えが返ってくるので、きっとほんとうに一般的な成長過程なのだと思う。そして数十桁以上の暗記が、国旗などとは比べ物にならないほどなんの役にも立たないということも、また数学界隈のだれもが知っていることである。

 

 小学校の高学年になると、国の首都の名前を覚えた。当時の小学校のカリキュラムに英語はなく、したがって現地語はおろか英語すらまったく知らなかったわたしにとって、それらの名前はもちろんランダムな文字列に過ぎない(おまけに無理やりカタカナに転写されている)。その国に首都より大きな街があっても、首都しか覚えていなかった。覚えることそれ自身が目的だからである。

 

 それ以降の記憶はあまりない。たぶんそのあたりで、なにかをただ覚えるという活動から遠ざかっていったのだと思う。いくつかの国の自治体を覚えようとしたが結局は忘れた記憶があり、アメリカの五十州すらいまだにおぼつかない。それ以外のより有用なこと――たとえば英単語――に関しては、最初からまったく覚えようとは思わなかった。

 

 覚えることは基本的に、なにかのための手段だ。教科書に載っていることはすべてそうで、わたしたちは教養のため、あるいはより現実的には受験のために、それを覚える。けれど覚える楽しみとはきっと、覚えることそのものを目的とした場所に存在する。目的と手段の錯綜したその場所に、たまには訪れてもいいような気がしてくる。