彷徨 ①

 漠然とした人影がひとり、禁止区域へと分け入ってゆく。

 

 彼はスーツを着ている。十年前の彼の身体にはぴったりと合っていたらしい、その埃と泥が染み込んだその黒の上下は、今の彼の貧相な身体にはだいぶ余って見える。しかしながら足取りは洗練されており、けっして優美とは言えないものの、ミニマルに統制の取れた所作を絶え間なく続けている。

 

 彼はしかし、自分のしようとしていることに気づいていない。洗練された歩みを進めながら、彼の漠然とした意識からは、自分自身の置かれた状況の把握が完全に抜け落ちている。だから彼は、安全区域の端を表す足元の赤線に気づかない。気づかないまま、禁止区域へと踏み込んでゆく。

 

 もっとも彼は、足元に気を付けていないというわけではない。都市が瓦礫へと堕ちたこの時代、ひとはつねに下を向いて歩く――曰く、むき出しの太陽は眩しすぎて、とても空など見上げられたものではないから。つまりそれは、現実から逃げたがる現代人による、あまりにロマンチシズムの過ぎる言い訳。彼はあらゆる意味で盲目ではなく、したがってそんな言い訳に巻かれはしないし、赤い線が物理的に見えないわけでもない。

 

 だが彼は、禁止区域へと突き進む。赤い線が見えていながら、それが見えていないから。この先が地雷原であることを示す看板の文字は彼の母語で書かれている。だがそれが母語であるがゆえに、彼の意識にはのぼらない。

 

 彼は昔、この赤線の向こうに勤めていた。今着ているのと、まったくおなじスーツを着て。

 

 吹けば飛ぶような、潰れかけの町工場だった。社長は帳簿もろくに見ず、ただ部下を怒鳴り散らすことだけに全力を傾けていた。年代物の工作機器は埃をかぶり、その動かしかたを知っている社員がもうだれもいないのにもかかわらず、敷地面積の大部分を占有していた。銀行からの融資は止まり、副社長を兼ねていた社長の妻は、戦争の二年前に夜逃げした。

 

 この道を通るたび、彼は憂鬱な気分になったものだ。ほかに働き口があれば、こんなところ今にでも辞めてやるのに。そして幸運なことに大企業の事務の仕事を見つけ、社長へと辞表を突きつけた。怒鳴り散らす社長の机にペットボトルを投げつけたあとは、二度と後ろを振り返らなかった。帰り道を踏みしめながら彼は、もう二度とこの道を通るまいと心に誓った。

 

 だがいま、その誓いは彼の心に響いていない。十年という歳月がそうさせたのではない。彼の意識はいまだに彼自身を誓約へと縛り付け続けており、だがこの現在、彼に意識は存在しない。