幸せな怒り

怒っているひとを見るのは面白い。そのなかでも、持てる語彙力を総動員して世の中のすべてを相手に怒鳴り散らしている様子は、爽快と呼んでいいものだろう。だれもが互いを気遣って生活する世の中もけっして悪いわけではないが、ときにはやはり、ことばの暴力を摂取したくなるときがある。

 

怒られているひとを見るのは面白くない。怒っている側が変な感性を持っているというだけのことで、一辺倒に怒鳴り散らされてしまうひとには同情を禁じ得ない。大したことのないことをひたすらあげつらわれ、平身低頭して謝り続けているひとを見ると、こちらまで居心地の悪い気分になる。そしてなんだか、自分が怒られているわけではないのに、連帯責任なような気さえしてくる。

 

怒るひとを見るのは楽しい、怒られるひとを見るのは楽しくない。おなじ現象を両サイドから見ているだけなのに、覚える感情は百八十度異なる。なぜだろう、と問うまでもなくそのわけは、現象を両サイドから見ているからだ。加害と被害は非対称なのだ。怒っている側に立てば楽しいし、怒られている側に立てば楽しくない。それじたいは、べつに不自然なことでもなんでもない。

 

怒りをエンターテインメントとみなすのならば、わたしたちは加害者の側にいる必要がある。その状況を楽しむことをわたしは否定しない――いくら道徳観念が発展しようが、ひとは加虐を愛するものだ。とにかく言いたいのは、怒りでひとを笑顔にしたいと思えば、そのひとを加害者に仕立て上げる必要があるということだ。

 

だから加害者は魅力的である必要がある。このひととなら同じ場所に立ってもいいと思ってもらえなければ、聴衆は被害者になってしまうからだ。被害者からしてみれば、怒りなど気持ちよくもなんともない。被害者からしてみれば、怒りは不快なだけだ。面白い怒りのためには、被害者は存在してはならない。すくなくとも、存在しないと仮定することにだれも抵抗を覚えない人物でなければならない。

 

存在しないと仮定してもよい被害者を用意する。実際に歴史上、そういうことを企んだ例はある。被害者が実際には存在していたからこそ、それは大きな問題になったわけだ。けれどももし仮に、被害者が本当に想像のなかの存在に過ぎなかったのだとすれば。存在しない存在に怒鳴り散らすことで、ひとを笑顔にすることができるのであれば。その怒りは、存分にぶちまけたほうがいいということになる。

 

怒っているひとを見るのは面白い。そして怒りとは、かならずしも目の前の相手に向けられるものではない。その場の全員が加害者になれる怒りはありうるし、実際にある。そしてその怒りは、怒りということばから受ける印象とは裏腹に、純粋に幸せなものであるはずだ。