意味のない音声 ①

 音楽について、最近になってようやく気付いたことがある。音楽は、ことばであるということだ。

 

 深い意味ではない。メロディーやリズムの話す声が聞こえるようになったとか、ハーモニーが言語的調和であると感じられるようになったとか、そういうスピリチュアルなことを言っているわけではない。情報学的な意味でもまたなく、たとえばコード進行を言語と捉えて解析するだとか、そういう品のないことをしようとしているわけでもない。わたしが言いたいのは文字通り、音楽の多くには歌詞がついているということ、そして歌詞とは詩であり、つまりことばであるということだ。

 

 もちろん知らなかったわけでもない。わたしが想像の中の昔の上流階級なら、ポップスのような軽薄な音楽を固く禁じられた結果これまでクラシック音楽しか聴いてこなかったせいで音楽に歌詞がついているということを想像できなかったとかそういうことも言えるだろうが、わたしは上流ではないし、現代人である。その上流階級とてわたしの想像の中にしか存在しないし、たとえポップスがなくてもオペラはあるということをわたしは完全に失念している。誰しもひとつはそういうことがあるように、わたしは音楽に詩としての側面があることを知ってはいたが明確に意識しておらず、したがって音楽がことばだとあらためて言われれば、そういえばそうだ、とひとつ驚いたのである。

 

 意識していなかった理由は、思い返すにいくつかある。ひとつ、歌詞はえてして聞き取れない。わたしの耳か頭が悪いのかと思っていた時期もあったが多分そうではなく、歌詞カードなしに現代の一般的な曲を聴いて、完全にディクテーションができると自信を持って言えるひとはそういるまい。ことばの持っている、アクセントとかリズムとかそういう識別子は音楽になると結構な割合が破壊され、だからたとえ母語だろうが、音楽は訛りすぎていて聞き取れない。

 

 そしてもうひとつ。音楽をことばだと思えなかったより大きな原因は、詩の内容にほとんど、わたしが共鳴できなかったことだろう。

 

 多くの詩は恋愛を題材にしている。音楽に使われる詩は特にそうで、すべてとはもちろん言わないが、かなりの割合がその要素を含んでいる。そして恋愛とはなかなか摂取するのが難しいコンテンツで、詩の中で語られる強い感情をどうやってか、自分の感情であるかのように感じなければならないのである。恋愛とは完全に個人的なことだから、必要なのは当事者性であり、だがわたしはいかなる意味でもその当事者ではない。