インスピレーションとアイデア

思い立っての試みとしてここ数日、とりあえず物語の冒頭を書いてみている。続きはなく、だからもちろんどう終わらせるかなんてまったく考えていないわけだが、むしろあとのことをいちいち気にしなくて済むからこそ、手は進むというものである。

 

あれらの文章が実際、小説の書き出しとして適切なものだったのかどうかは、筆者であるわたしには判断がつかない。だがかりに適切だったと仮定して、すれば読者にはきっと、続きが読みたいと思ってもらえたはずだ。わたしは傲慢だから、思ってもらえたとして話を進める。ない続きを楽しみにさせたという罪は、さっぱり忘れてなかったことにする。

 

ところで筆者とは、その文章の最初の読者でもある。だから続きを楽しみにするということにおいては、諸君、わたしもあなたと同じである。思うに一千字というのは絶妙な分量で、世界の情景のイメージをただ提示するためだけには少々多いが、その世界がどういうふうにできているのかを説明するのにはあまりに少なく、だから話の続きの気になったわたしは、最初に思い描いた情景がいったいどういう理屈で発生しているのか、その理由付けを探そうとする。そしてその理屈の一部を説明し終わったところで、冒頭部分は終わる。

 

一千字の冒頭を構築する作業は、かくしてアイデアを出す作業である。理由もなくただ綺麗なだけの情景を種に、それを成立させるに至った世界を逆算するのだ。こうやって出てきたアイデアが使い物になるのかはさておき、わたしにそれをかたちにするだけの能力が備わっているのかはさておき、とりあえずなにかが生み出される前兆のようなものを、たしかにわたしは感じてはいる。

 

後知恵だが、世界のアイデアを出すためにこれは有効な方法なのかもしれない。というのも、世界を構築する論理というものは、人間の脳が一瞬で思い浮かべられるものではないからだ。最初に思いつくのはたいていなんらかの情景であり、そこになにかひとを惹きつけるものはあるかもしれないが、論理性はない。そしていったん情景ができれば、そこに論理をつけていくのは簡単である。

 

あわよくばそれで、物語が完成すればいい。情景を思い浮かべて、それを説明して一丁上がり、なら素晴らしい。けれど物語にはきっとその先が必要であり、先をきっちりと構築できた経験がいまだない以上、方法論は語りようがない。

 

だがきっと、それは書きながら学べることなのだろう。世界のアイデアと同じように、ストーリーのアイデアにもきっと、出し方というものがあるはずだ。