ストーリーを競う

 論文のイントロダクションに、研究者はいろいろなストーリーを書く。内容はと言えば、この研究はきっとこういうことの役に立つとか、こういうモチベーションをモデル化しているとか、あるいはほかのこういう研究とこういうふうに関連付けられるとか、まあそういうところである。しかしながらそれらを書いている当人とて、かならずしも自分自身のことばを信じているわけではない。

 

 もちろんそんなことは最初から分かっていた。応用的ななにかの役に立つという話で言えば、応用分野ではまったく素人であるわたしたちがその応用に関する乏しい知識を総動員したところで、とても現実世界の問題に対処できるわけがない。そしてわたしたちの大部分は、専門外のことに対して自分たちが不勉強であるということを理解できる程度には謙虚であり、だからわたしたちが小手先で作り上げた付け焼刃の応用に、わたしたちは騙されたりしない。ほかの理論研究との関連付けという物語に関しては、そもそも理論研究のスタート地点がそんなにきれいな点には存在しないということを、わたしたちは身をもって知っている。

 

 それでも研究者はストーリーを書く。だが後付けのハッタリだと分かっていて、なぜそんなことをするのだろうか。そしてそれ以上に、なぜストーリーがそれらしく書かれている論文を高く評価するのだろうか。わたしは長い間それが不思議であり、いまでもその疑問は解決していない。

 

 だが最近、ひとつ分かったことがある。それはつまり、あの手のストーリーがつねに作られたストーリー以上の何物でもないという考えが、思ったより広く受け入れられているということだ。しばらく前までわたしは、研究者の大部分はあの手の粗雑なストーリーを信じているのだと思っていた、あまりに他分野の経験も応用への敬意もないかなにかで、ハッタリをハッタリと気づかずに論文を読み書きしているのだと思っていた。だが冷静かつ客観的に考えて研究者という集団は、おのれの論理の過度な単純さを内省することすらできないほど頭の悪い人々ではない。

 

 つまりこのコミュニティは、イントロダクションのストーリーを単なる後付けのストーリーに過ぎないと理解したうえで、それでもイントロダクションの出来を競っている、と、そういうことになるわけだ。

 

 それは矛盾ではないか、とわたしは依然として思う。すくなくともわたしにとって、それは矛盾である。わたしにとって研究と小説は違うものであり、小説がストーリーの出来を競う反面、研究とはその中身の学術的な正当性と技法や結果の強さを競うものだと思う。けれどいくらかの人間が、研究を提示するフィクションの出来を競うものだと考えているとして、それもまた個人の考えかたとして尊重されるべきものなのかもしれない。