肯定の軽薄さ

 逆張りという悲しき宿命を背負ったわたしたちは、ある種のことがらをけっして素直に表現できないというハンデを抱えている。わたしたちが言えぬこととはすなわち教科書的な信念であり、しばしばひとはみなそうあるべきとされる純朴な感情であり、道徳的な観念であり、道徳的とされながらも内心ではだれもがそれに違和感を覚えている価値観に対する面と向かった反論である。あるいは論理なき根性論であり、努力すれば夢がかなうという安易な物語であり、それと同時に根性論に対する敵意の表明であり、論理性の欠如した物語にある欠陥に対する指摘でもある。それらのすべてに共通する性質とは、そのことをあまりに多くの人間が主張しているせいで最初に聞いたのがもはやいつだれからなのかすら思い出せない、ステレオタイプな言及だということである。

 

 とはいえステレオタイプはときに正しい。すくなくとも、わたしたちよりは絶対に正しい――ステレオタイプを嫌い、どのステレオタイプの近傍に属しているともみなされたくないと考えているひとたちが、そうみなされないという消極的な目的のためだけに、複数のステレオタイプのあいだにわずかに残された隙間に無理をして建設した論理よりは。ステレオタイプから逃げ続けるということによってわたしたちはステレオタイプに規定されており、ゆえにわたしたちは、ステレオタイプとは正しいことが多いのだという当然の理屈を、こうしてみずからを嘲ることでようやく作り出した、歪んだ前置きを通じてしか主張できない。

 

 わたしたちの文章は、ゆえに長くなる。およそ少しでもステレオタイプ的である何事を語るのにもわたしたちには前置きが必要であり、そこでは自分がいかにそれをステレオタイプであると客観的に認識し、その戯画性を滑稽に思い、可能なことなら眼前に横たわる平凡さからひと思いに解脱しようと、日々機会を伺っていることを主張せねばならない。かくしたのちにようやくわたしたちはステレオタイプを語る権利を得る――わたしたちは負けたのだ、ありとあらゆる種類の解脱の試みの先でなお、眼前のどうしようもない陳腐さの中に、それでもわたしは真実の一片を見出さざるを得なかったのだ。

 

 わたしたちは孤独である。だからわたしたちは、他人にも同じ態度を求める。ステレオタイプを無邪気に受け入れ、自分のことばであるかのように錯覚して発信する人間をわたしたちは軽薄だと思う。無益な束縛、生産性の欠如、だがそれは必要悪。

 

 なぜなら。その無邪気な人間はズルをしているからだ。ステレオタイプを語るためにはまずそれを否定しようと試みるところから始めるという当然の手順を、かれらは踏んでいないのだから。