ギリギリ

 明日の発表のスライドを、今日作っている。作業がこれほどギリギリになったことはないので、なかなか新鮮な気持ちである。

 

 とはいえわたしがいま感じているこの気持ちは、こうやって事実を書いても伝わらないだろう。というのも、明日のスライドを今作るというのは客観的に見れば、べつにたいした緊急事態ではないからだ。わたしがこれを緊急だと感じて、「明日の発表のスライドまだできてなくてヤバすぎる汗」とか今日の午前中にツイートしたところで、そういう状況を幾度となく経験してきた無計画の猛者たちから、「スライドってそういうもんだろ」「余裕すぎ」「むしろ前日より前に作ったことない」「徹夜すればまだ遊んでても間に合う」などと、なんだか不思議な批判を受けることになるのが関の山である。

 

 そういう無計画の陣営にわたしがいないのは、わたしがこれまで計画的だったからだ。いや、わたしとしては作業計画を立てた記憶などまったくないから自分を計画的だとは思っていないのだが、締切を気にしなくていいほどじゅうぶんはやくに作業を終わらせる、という方針は、計画性のあるほうに分類されるようである。いわゆる、夏休みの宿題は早めに終わらせるタイプ、というやつだ。

 

 ひとが無計画に作業を遅らせるようになるのは、作業を遅らせた結果どうにかなってしまうという成功体験を積むからだ、と聞くことはよくある。わたし自身はそうなっていないので、真偽のほどは知らない。とりあえずわたしがいま積んでいるのがそういう体験であるというのは確かだが、これ以降のわたしに、作業を遅らせる癖が根付くのかは分からない。

 

 ひとつ言えることとして、わたしは自分の限界を知らない、ということが挙げられる。べつに格好いい意味ではなく、締切ギリギリに作業をしないせいで、締切までどれくらいの余裕があれば作業が終わるのかよく分からないだけだ。だいたいの場合は恐怖から、かなり安全側に倒した主張をする。傍から見ていれば全然余裕に見える締切を、ギリギリ間に合うかどうかだと主張している自覚はある。

 

 そして今回もわたしは、限界を知ることはできなかったらしい。スライドが完成したことにしてこういうくだらない文章を書いている余裕が、いまのわたしにはあるのだから。

 

 見積もりは正確なほうがいい。だから、ギリギリ間に合うかどうかです、と言ったときには、本当にギリギリであればあるほどよい。世の中で発言権を持つのはそういう奴であり、ギリギリだと言いながら余裕で終わらせる奴より、ほんとうにギリギリ終わらせる奴のことばに重みはある。

 

 というわけで、わたしのことばに重みはない。ありていに言えば、ダサい。余裕なものをギリギリだと主張するというのはそういうことである。