反復練習とその限界 ②

スタートラインにおいて、わたしたちの理解は浅い。ひととおり教科書を読み、書かれている概念の存在を知り、だが具体的な問題を解くことになると、手は自然にはまったく動かない。わたしたちが解くのは基礎的な問題だ、すくなくともそう思えるような問題だ。しかしながらそれにすら、わたしたちは頭をひねる必要がある。競技者をやっていればすぐに答えが見えるであろう、教科書の直接の応用問題にすら、だ。

 

しかしながらある種のことがらは、そういうきわめて基礎的なことに頭を悩ますことによって、すでに成し遂げられてしまうことがあるのだ。

 

研究といういとなみにはそういう傾向がある。わたしたちは論文を読む、だがその論文の内容を、競えるほどに理解することはない。ある程度深くは理解するかもしれないが、わたしたちはけっして、読んだものを自由自在に扱えるようにはならない。

 

しかしながら研究は、そんな不自由の中で行われる。理解と応用不可能の霧の中でわたしたちはもがき、そして掴んだ何らかのものが次の論文として出版される。その意味では、論文とは書いた本人ですらまったく自由には扱えないということもできよう。あとから読むだけのひとよりは幾分ましだろうが、それでもやはり研究者は、競技者だと言って胸を張れるレベルには程遠い。

 

にもかかわらずそれは恥ずべきことではない。霧の中にいるという事実はまったく競技的ではないが、霧の中で何かを掴んだという事実だけでもう、研究として成り立ってしまうからだ。

 

そう考えればある意味で、研究者は甘ったれているとも言える。濛々と立ち込める応用不可能性の霧を、晴らさずとも評価されるひとびと。自由に歩けなくても、手がかりを見つけるだけでいいひとびと。繰り返し練習してなにかを身につけるための、気合も執念も足りないひとびと。

 

だが、まあ、そうも言っていられない。霧の晴れた、自由に扱える技術にはもう、研究する余地は残っていないからだ。

 

目標をボウリングにでも喩えてみよう。わたしにとって努力とは、全フレームでストライクを取る努力であった。運悪く残ってしまったピンも、二投目で確実に倒す技術の練習であった。十本すべてのピンを倒す、そのことじたいはまったく可能で、まったくの素人にすらたまにはなしうることだ。しかしながら、常に倒し続けるのは難しい。そういうゲームバランスで、ボウリングという競技は成立している。

 

しかしながら、そうでない領域も存在する。ピンがどこにあるかも知れず、ボールがどれなのかもわからず、ただ一ゲームに一度ストライクを取れればいいという領域が。どうすればそんなことが可能なのかは分からない――だからそのための練習もしない――だがわたしは闇雲にボールを投げ、そして一度でいいから、倒すことだけが求められている。

 

そういう「競技」、スタートラインに立つだけで既にゴールである「競技」を、わたしはどう見做すか。練習ができないぶん難しいとみなすのか、あるいはまた、一度でも倒せばいいことを簡単だと考えるのか。

 

それはまあ、そのときの都合による。

 

しかしながら。そこには唯一、確かなことがある。それは。

 

これまでのような練習方法が、まったく通用しないこともあるということだ。