延長意識

 わたしの意識は、死んだら消える。

 

 あなたの意識もそうだ。あなたの家族の意識もそうだ。あなたの友人の、恋人の、師匠の、仇敵の意識もそうだ。あなたたちの意識は死んだら消える。わたしたちの意識は死んだら消える。

 

 そうではないと仮定してみよう。わたしの肉体は死に、だがわたしの意識は消えない。肉体を失いつつもあなたは意識を残し、家族を愛し、恋人と友人を想い、仇敵を憎む。あなたの家族や恋人や友人や仇敵もやはり死してなお意識を残し、あなたはその残された意識を愛し、想い、憎む。

 

 そうではない状況を作り上げるのは難しい。だが、そうではない状況を想像するのは簡単だ。そういう状況を考える、思考実験の枠組みをわたしたちは持っている。意識の電子化とサーバー上での実行。全脳シミュレーション、あるいはより簡潔なモデルの動作。コピー・アンド・ペースト。無限に複製される自分、そのすくなくともひとつが永遠に生きる。

 

 それはある意味での不死である。不老ではないが、不死ではある。人類の究極の希望の、あるいは絶望の半分である。そしてそれが最大の希望あるいは絶望であるのは、意識を保持し続けるという特性が、古来より容易に想像されることであったからに他ならない。

 

 意識とはなにか。わたしはそれを知らない。あなたもそれを知らない、医者も脳科学者も、哲学者もそれを知らない。弁護士も警察も知らない。マジシャンも占い師も、盗賊も霊媒師も知らない。

 

 知らないことは問題ではない。知らないが想像できることはいくらでもあり、意識とはそのひとつに過ぎない。機械のなかに、あるいはもっと優れた媒体のなかに存在する意識は、わたしたちの想像力の届く範囲にある。だからわたしたちは、それを想像する。無限の意識を理解し、物語に組み込める。

 

 そこに説明はいらない。意識が消滅しないという言明に、面倒な定義は必要ない。

 

 意識を延長できると知ったとき、わたしたちが気にするのはその確実性である。延長できるのはどれくらいか。ほんとうに無限へと延長できるという意味か、それとも細胞分裂とは別の限界があるだけなのか。わたしたちをシミュレートするサーバーが停止したら意識も消えるのか、それともバックアップがあるのか。電力の供給が止まったら意識は消えるのか。人類が滅んだら消えるのか、地球が消滅したら、宇宙が終わったら、その外側にあるなんらかの機構が不具合を起こしたら、神が世界を作り替えたら、意識はどこへ行くのか。

 

 そしてそれまでのあいだになにが起こるのか、わたしたちは知りたいとは思わない。