近未来的現代

視線の動きを介して操作する、網膜投射型の拡張視野デバイス。街中の風景をオーバーライドして、広告や評価を表示するソフトウェア。無人タクシーの走る渋滞なき道路網。人工知能による健康診断、そのデータに基づいて動く自動調理器具。あたかもそこにあるかのように触れられる、想像上の電子ペット。それらはどれも近未来の代表的なモチーフで、そういうものがある世界こそを、わたしたちは近未来だと認識する。

 

それらのモチーフはどれも、現代に存在する技術の延長線上にある。拡張視野デバイスなんかはいい例で、あれは現在の技術であるスマートフォンとヴァーチャル・リアリティの重ね合わせだ。わたしたちはそういう技術を簡単に想像できる――どう使うかも、それによって社会がどう変わるのかも。近未来とはその意味で、現在の世界から簡単に想像できる未来なわけだ。

 

考えてみれば当たり前の話だ。近未来とは文字通り、近い未来のことなのだから。世界は急には変わらないから、数十年後の世界はまだ現代の姿をそれなりに保っている。近未来の技術が社会をどう変えるか簡単に想像できるのは、変化前と変化後のどちらも現代の社会とそう大きく変わらないからだ。近未来が現代の延長なのは、それが確かにそう遠くない未来であるということを、現代との類似性によって表現しようとしているからだ。

 

さて。逆に言えば、現代は近未来に片足を突っ込んでいる。近未来の技術が現代の延長なのであれば、現代の技術とは近未来のプロトタイプだろう。現実に実現しているという点を除いて、現代は近未来と大きく変わらない。そもそも数十年前の世界は現実であり……そして数十年前からしてみれば、現代とはれっきとした近未来なわけだ。

 

もっとも。事実は小説より奇なりとはよく言ったもので、現代に存在するいくつかのものは数十年前の延長ではない。最もよく持ち出される例はインターネットで、数十年前の作家のほとんどは、数十年後にこれほどまでに世界が狭くなるとは予想できていなかった。数十年前に想像された数十年後の世界とは現代とはだいぶ異なる世界で、そして現代のうちのいくつかの部分は、数十年前には近未来ですらなかった未来である。

 

ではもう一段階想像のギアを上げて、過去から未来へと戻ってくることにしよう。

 

現代を近未来とする過去とはなんだろう。そこにはインターネットの原型があり、携帯型端末の原型がある。それとまったく同じように自動車が行き交う道の原型があり、洗濯機や乾燥機の原型がある。手術室の原型があり、不治の病が直せる日が近いと信じられている。飛行機の原型があり、人類が鳥のように空を飛べる日が来るかどうかを巡って、未発達のネット掲示板で激論が交わされる。

 

そういう世界を想像してみるのも面白いかもしれない。正しい歴史とはまったく異なる道筋をたどりながら、現代へと収斂する架空の科学史を。現代にいたるまでの数十年間、意外な変化はその世界では起こらない。近未来へといたる数十年、世界は予想通りの変化しか起こさないのと同じように。

 

過去と未来の対称性という意味において、その世界はまったくバランスが取れている。