陰謀論について ②

陰謀論を嘘だと見抜くのに、あなたの知識が一役買っているという考え。今日はこれを、逆方向から見てみることにしよう。

 

あなたはきっと馬鹿ではない。わたしもきっと、そう大した馬鹿ではない。だから多分、大方の陰謀論陰謀論と呼んで馬鹿にできる。

 

しかしながら、もしその態度が、わたしたちの知識によって担保されているのだとしたら。

 

知らないことに関して、わたしたちはいとも簡単に、陰謀論にはまってしまうのではないだろうか。自然現象あるいは偶然の一致の裏に、わたしたちは存在しない誰かの意志を見出してしまうのではないだろうか?

 

合理主義者であろうと願うものにとって、それはきっと、きわめて戦慄的な議論だろう。嘘を信じている誰かに対処するのは面倒なだけだが、自分が嘘を信じ込んで、他の誰かに言いふらす側に回るのは、その……、なんというか、わたしたちの尊厳の問題にかかわってくるからだ。

 

しかしながら、幸いなことに、反論はいくつか成立する。

 

もっとも簡単な反論は以下だろう。わたしたちはわたしたちの知らないことについて、判断を保留することができる。いわゆる『無知の知』があるのならば、たとえ知識がなくとも、陰謀論らしきものを信じないことは可能なのだ、と。

 

もうひとつの反論は、信じるのも仕方がないというものだ。多かれ少なかれ、誰でも嘘は信じている。たとえ自然現象か、あるいは無能で説明のつくことにでも、無意識のうちに意図を見出してしまうことはあるのだ。人間である以上それは仕方のないことであって、指摘されたときに訂正するだけの度量があれば、別段恥ずべきことでもない、と。

 

さて。

 

そのうえで、わたしが信じている、陰謀論らしきものをお披露目しようと思う。

 

十年ほど前、世界中のあらゆる機関の秘密文書を暴露して回るウェブサイトがあった。

 

そのサイトの標的は多岐にわたった。某世界大国の政府機関も例外ではなかった。というより、主な標的、と言った方が正しかった。自由な情報公開という正義に面と向かって異議を唱えるのが難しい一方、各機関はおそらく、多大なる被害を受けたことによる嫌悪を、かなり強い形で表明していた。

 

さて。そのサイトがある大きな機密を暴露したすぐあと。創業者が、性的犯罪の容疑で逮捕された。

 

正義について、ここでは語らないことにしよう。秘密文書を暴露する行動が果たして正しいのか、それを止めようとするのは正当か……などの問題については、すべてあなたの評価に任せる。ここで語りたいのは、現実に起こったことをどう認識するかという問題だ。各国機関が手を焼いていたウェブサイトを運営する男が、比較的検証困難な罪を問われて逮捕されたという偶然性を、わたしたちがどう処理するかという問題だ。

 

あなたがどう考えるかは知らないが、わたしは。

 

陰謀論の形をしているほうの説明を、事実だと信じている。