自動化 ⑬

 核戦争でも巨大隕石でもゾンビパニックでも、原因はなんでもかまわないがとにかく、こんにちの文明が滅亡したとしよう。そしてその世界にわずかに残った人間が、ひとりもしくは少人数で、ひっそりと生きていたとしよう。

 

 まずかれらは身の安全を確保する。ついで食料と水。それらのありかはだいたいの場合、放棄されたコンビニやスーパーで、かれらの食べるのはその中でも保存の効く、ペットボトル飲料や缶詰類である。

 

 それらの物資は無限ではない。優秀かつ手つかずの小売店を見つけたところで、そこにある腐っていない食べ物をすべて消費してしまえばおしまいである。次を探そうにもそういう場所は別の生存者が漁ったあとだったりするから、そのポストアポカリプスの遊牧生活は、時間が立つにつれてだんだんと厳しくなってゆく。

 

 タイムリミットは別のところにもある。いかに缶詰といえども消費期限は無限ではないから、文明が機能を停止して何年かすれば、人間に食べられるものはなくなる。そうなればわたしたちの生命はおしまいである。そこらへんの草を食べて健康でいつづけられるほど、現代人の身体はきっと強くない。

 

 そうなるまえに、まともな人間なら策を打つ。具体的に言えば、農業を始める。

 

 もちろんこれは想像の話である。そのような危機的状態に陥ったときに人類の集団がいかなる行動を取るかというのは、実際にそのときが来てみないことには分からない。

 

 けれどまあ、それくらいしかないだろう、とも思う。食事面での文明の遺産があらかた尽きており、その先に待っているものが飢餓であるということが明確で、なおかつその事実を直視できる程度の正気を集団として保っているのなら、わたしたちが農業を始めるだろう、というかそれくらいしか思いつかないだろう、というのは、断言してもいいレベルの真実なのではないか。そういうふうに、わたしは思うのである。

 

 そしてその方法を思いつくことができるのは、わたしたちが文明人の末裔として最低限、食料生産の手段としての農業という概念を共有しているからである、というのもまた、明白なことである。

 

 わたしたちは農業を知っている。具体的にどうやるのかは知らなくても、それが種をまいてしばらく待つと投資以上の成果が返ってくるというものであるということは理解している。

 

 そして知っているという事実の鏡写しとしてわたしたちは、農業という概念を持たない集団のことをうまく想像できない。