英会話をやめるには

自動翻訳はついに、英語で書くという作業からわたしたちを自由にした。新しい技術が革命を起こすちょうどその過渡期に英語論文を書き始めたわたしは、書くという行為の変化を身をもって体感するおそらく最後の世代になった。わたしたちはまだ自力で英文を作るという活動を知っているけれど、それ以降の世代にとってみれば、英語とはそもそも機械に書いてもらうものだろうからだ。

 

あるいは、わたしたちは最初の世代と言ってもいいだろうか。英語が書けないことが許される、最初の世代。わたしたちより上の世代の研究者は、みな自分で論文を書かなければならなかった。英語が書けないことをごまかす技術がない時代、英語力不足とはきっと、どうしても埋められない欠点であったはずだ。

 

正しい英語を覚えることから逃げ続けてきたもののひとりとして、技術にはいくら感謝してもしきれない。なにせ、逃げ続けていたらどうやら逃げ切れそうなのだ。

 

その調子でこのまま、英語から逃げ続けたい。英語を使える自分にわたしは憧れないから、関わりを断つ日は早ければ早いほどいい。けれどどうやら、そう簡単に縁は切れないようだ。というのも、書くという領域以外ではまだしばらく、英語とは真面目に付き合っていく必要がありそうなのだ。

 

英語を聞く、話す。これらは正直、英語で書くよりも難しい。書くのだって苦手だけれど、書くように話せればとはいつも思う。読むように聞けたのなら、いったいどんなに楽だろうか。そんな技術はまだ実現されていないけど、とりあえず、想像することはできる。

 

聞く必要も、話す必要もない世の中を想像してみよう。目の前の外国人が母語で話した内容は、リアルタイムで翻訳され、日本語でわたしに伝えられる。わたしは日本語で返答し、同じプロトコルがそれを相手の母語にする。もちろんいちいち自動通訳を雇うわけにはいかないから、すべては自動で行われる。

 

必要なものはそれですべてだろうか? それでいいのならわりと手が届きそうなものだけれど、本当にそれだけでいいのだろうか? 残念ながら、事態はそう簡単ではない。

 

生身のわたしたちは機械ではない。技術がいくら発達しようが、わたしたち自身は翻訳機にはなれない。会話が自動で翻訳されてほしければ、わたしたちにはなんらかの端末が必要だ。それがスマートフォンの延長なのか脳に埋め込むチップなのかは定かではないけれど、とにかくなにかが要る。そうしたハードウェアが開発されじゅうぶんに普及することなしに、英会話をやめることはけっしてできない。

 

世界語を使わなくていい世界とはすばらしい世界だろう。けれど残念なことにそこには、言語技術の発展だけでは至れないのだ。書くことの障壁はたしかに、自動翻訳がおおむね取り払った。けれど自動翻訳が単体で取り払える障壁は、悲しいかな、書くことだけだったのだろう。