村 ④

 科学的には矛盾の多いアイテムを登場させるために、それが引き起こす矛盾をだれも気にしないほどに原始的な村という舞台を用意する。サイエンス・フィクションがおそらく意識的に常用している、創作上のテクニックである。

 

 現代にそういう村は多くない。だからもし、そのアイテムが現代以降の科学と関連するものなのであれば、作者はなかなか凝った舞台を用意してやらなければならない。ほぼすべての陸地が国家という枠組みに収められ、アフリカの土着の市場には中国で大量生産されたおもちゃが並び、インフラ整備の遅れた街には固定電話をすっとばして携帯の電波が飛んでいるこの時代にあって、タイムマシンを自然に受け入れられるほどの素朴さを維持するのは、なかなか難しいのだ。

 

 だから舞台は必然的に、あまりに過酷な場所になる。たとえば絶海の孤島や険しすぎる山岳地帯。あるいはアマゾンの密林の最深部、氷と雪に覆われた北極圏の極寒地域。外敵を極端に嫌い、近づいたものにだれかれ構わず毒矢を放つ武闘派の村。大航海時代から五百年が経っていまだ文明の至らない、現実でありながらも極端に現実とかけ離れた、そこにホモ・サピエンスが本当に存在するのかどうかもよく分からない地帯。

 

 地球上にわずかに残されたその手の地域に、わたしたちは希望を託す。それは、科学を手にし、伝承や宗教までをも科学のものさしで判断するという態度をはっきりと獲得してしまったこの文明社会ではけっして成立しえないであろうディープなフィクションが、そういう場所でならきっと成立するかもしれないという、ほとんど諦観にも似た絶望的な希望である。

 

 そしてわたしたちがその希望を託せる理由は、かれらが単に遅れているからとか、そうでなければ作品が成立しないから仕方がないのだという作家のご都合主義とか以上に、かれらがきっと、信じる力を持っていると期待されるからなのだろう。

 

 文明化されたわたしたちは、非科学的なものを信じられない。科学的事実に反するなにかを信じている人間はたしかにたくさんいるかもしれないけれど、それもまた多くの場合、疑似科学というかたちで科学の名を借りている。物語としての昔話を愛することはできるが、なにもほんとう鬼ヶ島なる島があって、桃から生まれた青年がそこに攻め込んだなどということを、本気で信じているわけではない。科学というものさしを持ってしまったが最後、わたしたちはなにかを信じるという点において、明確な不可能性をその身に宿してしまう。