村 ③

 原始的な生活をいとなむ村に、ぽつりと置かれたタイムマシン。呪術と科学の区別はなく、物語と真実の区別もなく、ありえない言い伝えを本気で信じるかれらは、それをどう扱うだろうか。

 

 それが過去あるいは未来とつながっていることを、かれらはきっと知らない。タイムマシンに乗ったところで、時間移動をしたことにも気づかない。古代の村の生活には、現代人が揉まれているような急速な進歩がないから、きっと過去も未来もすべて、同じ様相を呈している。

 

 あるいは進歩した世界を見て、それを未来だとは思わない。代わりに異世界か天国か来世か、とにかく呪術的ななにかだと思う。それもやっぱり、進歩がないからだ。祖父母の時代に送っていたものとまったくおなじ生活をかれらはいとなみ、そして孫もその孫も、同じ生活をするのだろうと信じている。

 

 だからかれらはきっと、与えられたタイムマシンをもっとも素朴なやりかたで運用する。村にある不思議な機構は、どこかは分からない世界を旅行するための純粋な手段というわけだ。向こうの世界に赴いたかれらは、いつも通りに動物を狩り、木の実を取る。あるいは向こうに村を見つけ、友好的または敵対的な関係を築く。互いの世界の品を持ち寄り、物々交換という交易をおこなう。

 

 そして注目すべき点は、タイムマシンとは、そういうふうに「普通に」扱われている限りにおいて、わざわざパラドックスを発生させるような代物ではない、ということだ。

 

 母親殺し、あるいは自分自身殺しのパラドックス。もっとも基本的なタイム・パラドックスであるその例は、向こうの世界で自分の親族を殺すという、非常に特殊な状況下でしか発生しない。それはたしかに、パラドックスを発生させようという明確な悪意のある人物にならばおそらく引き起こせるであろう事態ではある。けれども同時に、タイムマシンを「普通に」使っている限りにおいては、めったに起こりえないコーナーケースでもあるわけだ。

 

 つまり。すべての論理と理屈があいまいな、原始的な生活をいとなむ古代の村という場所は、むき出しでぽんと置かれたタイムマシンを自然に受け入れることのできる場所なのである。科学の発展した現代や、想像される未来と違って。

 

 そしてこれこそがおそらく、蒙昧な村という舞台がその対極にあるように見えるサイエンス・フィクションとすこぶる相性がよい、という事実に対する、もっとも納得のいく説明なように思われる。