村 ➄

 科学という概念を持たない古代人は文明人とは違い、伝承や呪術やその他もろもろの非科学的なものごとを信じることができる。だれも進歩を目指さず、季節に応じた一定の周期で同じ生活を送り続けるかれらは現代人と違って、世の中の不変性を素朴に信じ続けていることができる。

 

 そしてそのような場ではおそらく、信じるという概念のありかたもまた、現代とは異なるものになっているだろう。

 

 なにかを信じると言ったとき、現代人はそれを、そのなにかを絶対のものとして取り扱うという意味だと考える。宗教を信じると言った場合それは神の存在を確信するという意味だし、科学を信じると宣言するひとは、科学のプロセスが真実だと認定したもののみを真実だと理解して生きていくことを理想としている。よりローカルには、友人を信じるとはそのひとのすべての行動の帰結を受け入れるということを意味するし、勝利を信じるという文言を悪意的に解釈すれば、それは敗北という現実の(おそらく蓋然性の高い)可能性にあえて完全に目をつぶり、勝ちに対するいっさいの合理的疑いを拒否するということである。

 

 古代の世界では――すくなくとも、サイエンス・フィクションの舞台として都合の良い想像上の古代においては、の話だが――信じるとはおそらくもっとあいまいな概念である。むしろかれらは無意識的になにかを信じてこそいるが、そのことを自覚していない、というほうが正確か。とにかくかれらは身の回りの状況に疑いの目を向けない。疑わなければならないような状況には最初からならない。そして疑わないのだから、わざわざ信じる必要もないというわけだ。

 

 かれらにとっての現実には、現代に存在するような種々の不確定性が最初から存在しない。季節は巡り、時期が来れば種もみは実をつけ、秋のうちにどうにか食料を蓄えて冬の到来に備える。数年に一度は大きな飢饉が来るかもしれないし、川が氾濫して家を壊すかもしれないが、それ以外に心配するべきことはない。

 

 かれらにとっての危機や不確定性はすべて、天候あるいは周囲の村との紛争という、まったく既知でありふれた、普通の現象でしかありえない。そしてもっとも特筆すべきは、かれらはそのような既知の不幸から自由でいられること以外のなにごとをも望んでいない、ということだ。だからかれらは科学を発展させない。衣食住が守られること以上の幸福があるなどとは最初から疑っていない。だからかれらが取る行動は、食料と軍備を普段から整えておくという素朴な対策程度のものでしかない。天災そのものを克服してやろうとか新兵器を開発して軍備で圧倒的優位に立とうとかいう身の丈に合わない「科学的な」野心を、かれらは決して抱きはしないのである。