村 ⑦

 このジャンルだけに限った話ではないかもしれないが、サイエンス・フィクションはよく世界をめちゃくちゃにする。作者がそうしたところで読者はそれを自然だと感じることができ、その理由といえば、科学や魔法といったたぐいのものはそれだけの絶対的なパワーを持ちうるという、至極脳筋的な理屈によるものである。

 

 そのような巨大な事件――もし歴史が続くのならば、確実に最大の転換点として扱われるようなもの――は、同時多発的に起きる悲劇とも呼べる。なにせ、既存の仕組みのうえに根差していた生活が、あらいざらい全部洗い流されるのだ。たとえその事件はものごとのうちのいくつかを好転させるものだったとしても失われるものは確実かつ大量に存在し、そして人間とは往々にして、得たものよりも失ったものの価値のほうを大きく見積もるものである。

 

 さてはて物語とは歴史書ではない。history のなかに story を見出すとして、その作業は字面とは逆に、むしろなにかを付け加える作業になるはずだ。というのも、物語に書かれるべきはあくまで、ローカルな登場人物どうしのやりとりだからである。何年の何月に何事件が起こったと歴史書に書いてあったところで、その裏にあるドラマまでは見えてこないから、それだけでは物語にはならない。

 

 サイエンス・フィクションが物語である以上、サイエンスがもたらすような巨大な事件ももちろん例外ではない。その事件は村か、国か、地球かあるいは宇宙を(サイエンス・フィクションとはつねに例示の外を行きたがるものであるから念のため補足すると、より一般には、その物語の舞台を)不可逆的に破壊し、歴史が存続するならそれに名を刻む。しかし同時にそれはその舞台に暮らすローカルな登場人物の視線で語られねばならず、かれらにとってそれは、住み慣れた地の(補足、物理的な地面がない場合、生活様式の)取り返しのつかない破損を意味している。

 

 それはまごうことなき悲劇である。

 

 古代の村は、悲劇と相性がいい。そして同時に、サイエンス・フィクションは悲劇と相性がいい。村の住人は不変性を素朴に信じ、これまでどおりの生活が自分が死んだあとも続くと思い込んでいるけれど、その素直な信念はわたしには、あとで木っ端みじんに破壊するために用意されているような気がしてならないのだ。村に文字がないのは、生活が破壊されたあと、それをけっしてだれも復元できないということを保証するための舞台装置に見えてきてしまうわけだ。

 

 そしてすべてを破壊し、悲しみを悲しみのままきれいに終えるために、村という舞台があるというふうに思えてくるのだ。