自動化 ⑪

 ポストアポカリプスの世界にかりに常識というものがあるならば、それは現代の常識とはかけ離れたものになるだろう。そして現代のわたしたちにはきっと、その新時代の常識を理解できないだろう。

 

 崩壊した世界の人間としてわたしたちが理解する人間像は、現代社会の人間に驚くほどよく似ている。かれらはわたしたちの世界のことを直接知りこそしないが、この時代の価値観と死生観と、それから人権意識とを兼ね備えている。その理由はたったひとつ、その世界を描き摂取しているのが、現代の人間だからである。

 

 そのご都合主義を疑問に思うのはしごく自然なことだ。

 

 過去でも未来でも、ある時代の人間にはその時代の人間なりの常識と思考法があり、それは現代のそれとはかなり異なっている。その手の価値観がたかだか数十年のスパンで変わる、というのは、「昭和」と聞いてわたしたちが思い浮かべる世界を考えれば、簡単に理解できることである。いわんや、文明崩壊後に常識が保たれるなどということをどうして正当化できようか。

 

 けれども、あくまでポストアポカリプスとはフィクションである。将来的に人類文明はなんらかの形で崩壊するだろうけれど、そうなった世界のありかたをわたしたちは知らないし、楽観主義を承知で言えば、観測できない。ポストアポカリプスという題材を摂取するという行動に、ペシミスティックな未来予想という、すこしばかりリアルで叙事的な自傷行為という一面があるのは否定しない。けれどやはり第一に、それはフィクションである。

 

 雰囲気や面白さのためには気にしても仕方のない要素を、フィクションは無視する権利を持っている。現代の価値観を持つ人間が生きる文明崩壊後の未来、という題材は、価値観の変化を主要なテーマにしない限りにおいて、ごく正当な世界である。

 

 そのような人間の生きる世界で、過去に崩壊した文明を描くには、どうすればいいか。

 

 一番手っ取り早いのが、その文明とやらを現代人には理解できないほど、非常に高度なものに設定することである。

 

 文明崩壊後の世界で、完全自動で動くなんらかの機構。現代人を模したポストアポカリプスの人間にとって理解不能な高度な技術として、これほどまでに適切なものはない。それはおそらく食料を生産したり、文明生物の存在そのものを維持する機能を持っていると推測されるが、正確なことは分からない。食料生産はきっと、わたしたちがよく知っており未来人もまたすぐに思いつくであろう、農業という手法によるものではないし、存在を維持する機能もまた、現代社会のインフラとは似ても似つかぬものである。