宇宙空間 ①

 サイエンス・フィクションの題材として辺鄙な村という舞台がいかに適しているかということについて、この日記では長々と一週間もかけて書いてきた。そろそろ書くこともなくなってきたころだし、ここはひとつ、べつの舞台について書いてみることにしよう。

 

 宇宙空間。サイエンス・フィクションと聞いたとき、多くのひとがまず最初に思い浮かべる舞台がそれだろう。具体的な場所は地球外の(とりわけ太陽系外の)星か、あるいはそこを目指す宇宙船の中か、そうでなければそれらのあいだに人工的に作った宇宙ステーションであることが多い。この分野の常として作者はつねに例外的にニッチな舞台を描きたがるものだが、まあたいていはこの三つのどれかである。

 

 サイエンス・フィクションの開闢以来宇宙がつねにメジャーな題材でありつづけたのは、ひとえに近現代の科学の方向性によるものだ。ごく近年では情報技術のほうがまさっているとはいえ、ここ数十年来宇宙開発とは(フィクションではない)現実世界の科学の主要なテーマであり、したがってフィクションも現実に影響を受け、その先の未来を描く。未来はえてして想像もつかないような姿をしているものだ(とサイエンス・フィクションの愛好家は信じている)が、宇宙開発が成功した未来とはわたしたちがもっとも想像しやすい未来であり、したがって現段階では、未来の世界としてもっとも説得力のある、なじみ深い、蓋然性の高い未来であるわけだ。

 

 悪意を持った言いかたをすれば、宇宙というテーマは現代人が現実科学に向けがちな、軽率で薄っぺらい期待によって成り立っている。現実の宇宙開発におけるあまたの技術的困難について考えることはすべて専門家まかせにして、やれ土地があるのならば人間が住めるに違いない、空間があるのだから基地を置けるに違いない、とばかりに、わたしたちは好き勝手に安直な妄想をする。あげくの果てには「遠宇宙に到達するにはちと相対論が邪魔だなぁ」とか言って移動に都合のいい空間を作り出し、地球外生命体との交流を夢に見はじめる。

 

 そういった妄想や夢に、サイエンス・フィクションはなかば乗っかり、そしてなかば無理を通されている。

 

 とはいえその手の妄想は、直接書かれればいいというわけではない。たとえば遠宇宙に行きたいとして、相対性理論を邪魔に思うのは勝手だが、それを排除するためには、そのための設定上あるいは物語構成上の理由がなければならない。サイエンス・フィクションは断じてサイエンスではないが、サイエンスらしくあろうと努力しなければならないのだ。