勝利至上主義

 運動会に勝ち負けをつけるのをやめよう。徒競走も廃止して、運動の喜びだけを児童には感じさせよう。子供に競争意識を植え付けるのはよくないという理由でそんなことを叫ぶひとが現れ、それが賛否両論を巻き起こしたのは、たぶんもう十年以上まえのことになる。

 

 おそらくおおかたのひとびとと同じように、この件に関して、わたしはつねに保守派の側に立っていた。たしかに行き過ぎた勝利至上主義は良くないかもしれない、だが運動会に勝敗をつけるのはぜんぜん行き過ぎてはいない。だから廃止する必要はない。それがたぶん多数派の意見だったからこそ、あのとき盛んだったこの議論は、いまではすっかり下火になっている。

 

 わたしはこの論争について、それほど深く考えたことはない。というのも、答えはすでに出ているとわたしは思っており、その答えを信じるだけでよかったからだ。保守派がだれでも言いそうな、「競うことは運動の喜びの一部であり、だれかに勝とうと思うことによって運動はより面白さを増すのだ」、という建前にだって素直に納得していた。そして保守派のだれもが内心ではそう思っているように、徒競走を廃止せよと叫ぶやつは例外なく運動音痴で、小学校時代のクラスでの自分の序列が低かったことに対する僻みとしてそんなことを言っているのだろう、そんなことをいまだに引きずっているなんてかわいそうなやつだなぁ、と鼻で笑っていた。

 

 さて。わたしは競うのが好きだ。わたしの好きだったコミュニティは競争を推奨した。中学受験塾の模擬試験では全国順位が出て、二位ならたくさん取れるのに一位はなかなか取れなかったから、それなりに燃えていた。中学以降は競技科学に目覚め、青春はそれに費やした。勝利は目指したが、勝利至上主義に染まっているとは感じなかった。目の前に勝負があるのだから、それを勝ちに行くのはごく自然なこと。

 

 考えてみればわたしの趣味には、どれも競技要素がある。パズルなどにはかならずしも対戦相手がいる必要はないが、成功と失敗は定義される類のものだ。

 

 成功が定義されれば成功率が決まる。成功率が上がればそれは自分が上達したということだ。上達するということは広い意味での勝利であり、成功である。そして自分という存在の価値とは、どれだけの多くのことを高い確率で成功させられるかという、万物へのメタ的な上達の度合いによって定義される。すくなくとも、わたしはそう信じている。

 

 それははたして、勝利至上主義に属するものだろうか?