読書趣味 ②

 本の世界は非常に広い。これは本には無限の可能性があるとか、素晴らしく豊かな世界を表現可能であるとかそういう思想的な意味ではなく、単純に、数が多い。たとえ人生のすべての時間を読書に充てたところですべての本を読み切るのは不可能だし、そんなことはだれも目指しちゃいない。これまでに出版されたもののうち一人の人間が読めるものはきっと一パーセントにも満たないのに、それでいいとだれもが思っている。

 

 そのせいか、読書には極めるという概念がない。すくい上げた水がスプーン半分だろうが風呂桶に一杯だろうが、大海を流れる水量と比べれば誤差に過ぎないのと同じように、素人の読者も玄人も、その持てる知識量の割合という意味では大差ないからだ。読書経験は線形で増える。これまでに読んできた本の冊数は、次の読書体験のレベルに影響を与えない。読書にレベルアップはない、多く経験した者にだけ見える世界などない。そこにはただ、多く消費したという事実があるだけだ。

 

 もっとも、だからといって読書を趣味と言い張ることにいっさいの抵抗がないかといえば、必ずしもそうではない。むかしはよく読んでいたひとが現在ではまったく読まなくなったとして、そのひとが読書趣味を語るのにはきっと、ほかの趣味を主張するときと似たような罪悪感を覚えるだろう。「最近なに読んだ?」「読んでないですね」「読書趣味なんですよね?」「そうです、そうでした」。ならそれは趣味なのか。きっと、趣味ではない。

 

 だが別のとある質問に対してなら、わたしたちはみな、すこぶる強く出ることができるのである。「あの本読みました?」

 

 読書は時代にとらわれない。百年以上前にかかれたものを読んで、ひとはいまだに感動することができる。何年か前に大流行していたが手をつけていなかった作品を読み、その面白さを再発見したとして、それはべつに恥ずべきことではない。今年の芥川賞を読んでいないことは、そのひとが読書に熱心でないことの証明にはまったくならない。

 

 もちろん読書も趣味だから、基礎教養は存在する。小説の結構な割合には『1984年』を読んでいる前提のことば回しが存在するし、それは『1984年』を読むのが必要だということを意味している。だがそれはどちらかといえば、読書家としての教養というより、人間としての教養のほうに近い。読書という習慣はあまりにも人口に膾炙しすぎており、読書を趣味としないひとでも触れたことのあるものだから、それを読んで上がるのは読書家としての格というより、人間としての格である。