人間の機械性

AI が書いてくる文章は、よく整っているけれど当たり障りがなく、読みやすいけれど面白くもなく、明快ではあるけれど含みはなく、優等生的な倫理観と信頼に基づいていて、まるで学校中のだれもが善良だとは認めるけれども一定以下の距離にはけっして近寄りたいとは考えない生徒のような、あるいは延々と自己紹介が続くばかりでなにひとつ印象に残らなかった飲み会のような、そんな消極的な穏やかさと冗長性に包まれている。かりに AI に人格を認める宇宙人がやってきて、地球人を捕まえてやつらのことを訊ねたのなら、わたしたちはきっとこう答えて、二言目には押し黙ってしまうだろう――「そうですね、真面目ないいひと、かな」。

 

そういうふうに感じてしまうのは、きっとわたしの性格の悪さゆえか。真面目で善良な相手と仲良くできないのはルール上、みずからの人間性の問題だと定義されるから。だれもがそれが欠けているということはそのことの定義が間違っていることの理由にはならず、したがってわたしたちはみな、善なる存在を遠ざける日陰者であり、善性の裏になんらかの悪を見出さなければけっして安心できない、偏屈な存在であるわけだ。

 

さて。とはいえこれは、AI に対してだけの話ではないかもしれない。なぜなら、そういう善の人間はほんとうに存在するからである。形式的な正義を本心から信奉し、だれもが建前だと感じているはずのことをみずからの行動指針の中心に据え、だれもに善良だと認められはするけれどけっしてだれとも仲良くはならない、そしてその状態を仲が良いと呼ばないことにはけっして気づくことのない、そういう人間と言えばだれしも数人の知己の、おだやかで、新しいことをなにも語らない微笑を思い浮かべられるだろう。

 

AI の人間性について、わたしたちは現在進行形でさまざまなことを語っている。けれども本当は、語るべきことは真逆なのかもしれない。AI の人間性ではなく、人間の AI 性。言語モデルに完璧に模倣される知性、言語モデルの枠組みをけっして脱することのない、表層的で無難な道徳観念。

 

AI の文章は真面目で表層的で、善良で魅力に欠ける。けれど人間の多くはそうであり、だからもちろん、人間の書いたものの多くもまた同じだ。ステレオタイプなストーリー、努力は必ず実るという世界観、真実の愛、それのはらむ矛盾がけっして意識されることのない、人命至上主義的な生命倫理。わたしが共感できず、えもいわれぬもどかしさのままに終わるそんな物語なら、人間がすでに、いくらでもたくさん書いている。