丸暗記

 専門課程に進んでからというもの、わたしにとって勉強とは、数学をすることを意味している。より詳しく言えば、数学の教科書や論文を読んでそこに書かれている理論を理解し、最終的にはその論理展開を脳内に構築して、なにも見なくても再現できる状態を目指す、というのが勉強の理想形である。

 

 もちろんその理想はつねに達成されるわけではない。数学の理論は難しいから、多くの概念は、どんなに頑張っても理解できない。そんな状況に陥ったらどうすればいいのかと悩んで偉い先生の書いている本を開くと、理解できないものは理解できるまで粘り続けよと書いてある。なにしろどうもそうすれば、ある日突然、理解できなかったものがすっと理解できるようになるらしいのだ。そんなわけはないと内心では思いながら、偉い先生の言うことだし一応は聞いてみるか、と学習者はなんとなく粘ってみる。そしていつのまにか意欲も減退し、集中力は落ち、最終的には諦めることになる。

 

 さて。以上は極端な例だ。実際には理解できる数学というものもあり、何冊ものを諦めたり積んでいたりするわたしたちにも、偶然波長の合う分野がある。数学のなかには絶対的に簡単なものもまたあるし、そんな簡単なもののなかにも研究テーマはあるから、大学院生として困りはしない。けれどそれでも数学の勉強がなにかを理解するいとなみであるということには変わりない。究極的には、書かれている技を自分の手足のように操れるようになることが目標だということも。

 

 そして高校以前、勉強とはかならずしも、そういうタイプのものだけではなかった。

 

 小学生のころ、わたしたちは都道府県を覚えさせられた。そこにどんな都市があるのかを覚えさせられたし、産業と人口を叩きこまれもした。どの虫が完全変態でどの虫が不完全変態なのかを丸暗記させられたし、人体の構造を示されたし、植物の冬越しの様子を見せられ、覚えろと言われた。その後の中高生活だって、英単語や古文単語、歴史上の事件、金属の電気陰性度、炎色反応の色と、丸暗記のオンパレードである。

 

 そういう勉強を、わたしは好きなタイプではなかった。英単語も文法もなるべく覚えたくなかったわたしは、大学受験では潔くそこを捨てた。あるいは別の回りくどい方法を用いて、暗記を迂回しようと試みた。理屈で導けるものは、より覚えやすい理屈のほうを覚えようと考えたのだ。

 

 幸いなことに最近、暗記をする必要は一切なくなった。だからいまのわたしは、驚くほど暗記をしていない。理詰めではどうしようもないことがらは世の中にはたくさんあるが、それらのすべてから逃げていても、とりあえず人生はどうにかなる。それは素晴らしく楽なことではあるが、暗記でしか得られない多くのことをわたしが得られずにいることを考えると、少しばかり寒気がしてくるのも事実である。