傲慢さの欠落

 絵描きたちが画像生成 AI を目の敵にし始めてから結構な日が経つけれど、そういえばかれらの楽観的な姿というか、いわば強者の余裕のようなものを見せている様子を、わたしはついに見たことがない。

 

 そりゃそうだろう、と普通は思うだろう。楽観的もなにも AI は強力な脅威であって、この問題において絵描きは最初から弱者じゃないか。自分たちの作品とほとんど区別のつかない出力を何百分の一の時間で行うやつらを前にして、どうやって余裕を保てばいいというのか。そう思うのが正常な反応であって、この期に及んでまだ暢気にいられるやつを、わたしたちはただ馬鹿だとしか思わない。

 

 けれど少し待ってほしい。わたしの知っている限り、人間とは生来楽観的なものだ。たとえ目の前の家が燃えていようとも持ち場を離れようとしない、三日後に電気が止まると分かっていてなお電気代を払わない。脅威を前にしてそれを正しく認識できず、希望とすら呼べないはずの絶望的な可能性に縋りつくのが人間なる生き物の姿であって、だからかれらがまだ暢気に過ごしていたところで、なんら不思議ではないのである。

 

 そういう楽観的な人間は、現実を直視しないためにあらゆる理屈を考え出す。光の陣営が勝利して銀行口座に六億円が振り込まれる、とかは完全に陰謀論の領域だけれど、もうすこし健全で説得力のないとも言えない論理なら、客観的に見て馬鹿とは言えなさそうなひとも結構、はまり込むことがある。そして創作の危機において、その手の説明の代表格はおそらく、人間が作ったものには感情がこもっているから機械には出せない固有の価値が出るとかいう、人間至上主義的な議論だろう。

 

 だがそういう議論は、もちろんしているひとがまったくいないわけではないけれど、現状を見ると、あまり市民権を得ているとはいいがたい。

 

 人間の作であるということの価値を、絵描き界隈はあまり重視していないように見える。機械が描いても人間が描いても結果としてできるものは一緒なのだと、描いている当人たちですらおそらく、そう素朴に信じている。もちろんそれはある種のリアリズム的な真実であって、わたしはむしろその考えかたを正しいと思う部類の人間だけれど、それが絵描きたちのあいだでもおそらく多数派の見解だということには正直、少々驚かされている。

 

 わたしの安易なステレオタイプでは、芸術家とは傲慢な存在である。ほかのだれがどう言おうがみずからの作品の価値を妄信し、それを解さないやつを馬鹿だと言い張り、なんの役にも立たぬはずの作品を作りながら、お前たちには分からないだろうがこれは社会の豊かさに不可欠なのだと吹聴する。そうでないと芸術家は務まらないし、だからわたしは芸術家界隈の空気が、そういう傲慢さと余裕に基づいたものであってほしいと思っていた。

 

 けれど現実に、かれらはかれら自身の価値に疑問を持っている。リアリストのひとりとしてわたしはそれを良いことだとは思うけれど、一方ではかれらへの幻想が崩れたような、そんな残念な気持ちもまた抱いている。