非オタク性

 インターネットでもてはやされる物語の類型として、ひとつのことを突き詰めた人間が成功する話、というのがある。主人公はけっして輝かしくない経歴の持ち主であり、運動においても勉強においてもとくに評価されることのなかった少年時代から始まる人生は、つねに「その他大勢」の一員でありつづけた。だがその平凡な経歴のあいだずっと、なにかひとつのことに飽きずに興味を持ち続け、そして人生も中盤戦となったころ、そのマニア気質がついに実を結ぶのだ。

 

 どう実を結ぶかについてはいろいろとパターンがあるが、その話に詳しく立ち入るのはやめておこう。ひとつ言えるのはたいていの場合、物語は主人公が、給料や人間関係や家庭環境などきわめて陳腐で一般的な尺度のひとつにおいて、かれらの人生の前半ではけっして超えられそうになかった相手をはるかに凌駕することをもって結末とするということだ。悪く言えばそれは、青少年期のかれらを苦しめたはずの世俗的基準から、人生の後半を迎えてもまだかれらが逃れられていないということを意味している――なにかひとつのことを突き詰めたはずなのに、かれらが自身を評価する基準は結局、その突き詰めたことの中にはないのだから。

 

 さて。この手の話がインターネットでもてはやされるのはもちろん、わたしたちが自分自身を主人公の側に置いて考えるからだろう。そうやって得られるお手軽なカタルシスが好まれるようになってから、もう何年にもなる。統計的に考えれば大半の人間は少年期、運動ができたわけではなければテストの点も平凡で、だからストレートに成功するルートに人生は乗っていなかった。だから成功の物語は、その時点での格差を無視できるものでなければ意味がなかった。

 

 面白い点がここにある。インターネットがオタクへと向ける共感は、あくまでそのマニアックさではなく、平凡な人生にこそ存在する。それなりに勉強と運動ができる青少年期を送るということより、なにかひとつのことを大人になっても突き詰めつづけているということのほうがよほど難しいという事実を、きっとだれもが薄々理解していることに違いないにもかかわらず、である。その種のより大きな困難がいかに困難であろうが、それはかれら自身を成功したオタクの幻想と重ねるうえでは、まったく障壁にはならない。何事にも深い興味がなかろうが、わたしたちは自分自身を、さもとんでもないマニアであるかのように感じることができる。